寒田神社(松田町松田惣領)

寒田神社。

松田駅/新松田駅の西500m程の場所に鎮座。

式内社 寒田神社に比定される神社。

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境内

神社へ入る道。祭礼時はこういう門(?)が立ちます。

 

社号標

 

鳥居

 

社号標

 

社号標

 

手水舎

 

茅の輪

 

狛犬

社殿

拝殿

 

扁額

 

神紋

八剣輪宝?

 

例祭の前日でしたので社殿前に御神輿

 

本殿は慶応4年竣工の流造で間口二間奥行二間だそうなので、これは覆殿でしょう

 

社殿改築記念碑

寒田神社は仁徳天皇三年亥十一月の御創建で倭建命弟橘比賣命誉田別命菅原道真公を祀り延喜式内相模十三社の一に位し社領壱百五十石を賜り上古より上下の尊崇の厚い神社であります

旧社殿は明治初年の建築でありましたが老朽の程度も多くなりましたのでこのたび氏子崇敬者の御協力を得て大正四年御大典記念として惣領と庶子の入会権者の方々が寄附された松田山の原野十町歩を松田山開発により売却しこれを基金とし更に氏子崇敬者の特別寄附を加えて今上陛下の喜寿を記念して御社殿を改築いたしました

設計を竹澤古典建築設計事務所に施工を株式会社下田組に内装を大槻装束店並に高田装束店に依頼し昭和五十三年一月着工一年有余の歳月を経て昭和五十四年二月竣工をみるにいたりました 御本殿は流造り拝殿は切妻千鳥破風向拝を切妻平入造りで古来の技法を生かし近代建築の粋をつくし耐震耐火鉄筋コンクリート銅板葺であります

境内社等

境内社

 

天神社 神明社 熊野社

 

祖霊社

 

歯の供養碑

 

案内板

本碑の起源は昭和参拾年ときの会長田村良三氏の発案により全国に先がけて我々歯科医師の日常抜去した歯牙を祀り世の人の健康を希い生きとし生けるもの全ての生命安らかにして幸いならんと祈り当時寒田神社宮司薮田喜作氏の指導により全会員が抜去歯牙を持ち寄り毎年秋の彼岸に供養を始めた事に由来するものである爾来歯の供養祭として会員の心の寄りところとなってきたが会長の提唱により本行事を永く後世に残さんと宮司薮田義文氏の理解ある協力によって歯の供養碑をここに建立する

 

寒田稲荷

 

 

倉庫?

 

明治二十七八年之役陣込軍人之碑

 

史跡 腰掛石

日本武尊が腰掛けたという伝説のある石です。『相模の古社』では、この石を古代の磐座ではないかとしています。

 

寒田神社のカシ

 

かながわの名木100選 寒田神社のカシ

幹はまっすぐに伸び、県内のカシ類の中では最も樹高の高いものである。イチイガシは県内ではきわめて少く貴重である。

樹高30メートル 胸高周囲3.0メートル 樹齢約500年(推定)

イチイガシは関東南部から九州に分布する常緑高木である。

樹高30メートル、胸高周囲5メートル、樹齢約1000年に達するものもあると言われている。

 

仙元大神の碑

 

堅牢地神の碑

 

神楽殿

 

参集殿

 

松田町大名行列

松田町大名行列は、明治の始め、殿様の大名行列の形を寒田神社の祭礼行事の中に取り入れようと、大久保藩ゆかりの方にお願いして許可を得て、「奴振り」の師匠から伝授されたのが始まりだと言われています。従って最初の頃は大名行列というよりは、祭りの行列の中へ「奴振り」を組み入れたものとして演じられ、親しまれてきました。

神社祭礼の日に神輿や天狗の行列の中に加わって町内を巡行していましたが、戦後になって町行政と分離することになり、昭和五十一年に「大名行列保存会」という組織で運営されることになりました。

本町の大名行列の特色は、寒田神社社誌にある祭礼行事の中の「赤坂奴」にあたる部分がその中心をなすもので、弓、先箱、毛槍、大鳥毛の道具を使用する「奴振り」と呼ばれるものです。

昭和五十二年に神奈川県民俗芸能五十選の一つにも選ばれました。また、毎年八月、町の観光まつりの目玉として町内を巡行し、その人気を高めています。

由緒

由緒板

寒田神社

一.鎮座地 神奈川県足柄上郡松田町松田惣領一七六七番地

一.祭神 倭建命 弟橘比売命 菅原道真公 誉田別命

一.由緒 ご創建は仁徳天皇三年(西暦三一五年)と伝えられ平安時代には延喜式の神明帳に相模国の十三社の一つとして載っている古社です。

思うに一万年ぐらい前から堆積や地震による隆起により足柄平野が形成され開拓が進められてきた過程で人々の心の拠所としてこの地に建てられた神社であります。

源頼朝はしばしば立ち寄った松田亭より年々玄米十石を奉献し徳川家光も朱印地百五十石を寄進するなど尊崇されてきました。

時代はさがってアメリカ最初の宇宙飛行士ジョン・グレンさんも当社の祈祷神札を受けて無事成功され大願成就の参詣をされた。

昭和十六年に県社になり昭和四十三年には神社庁より献幣使の参考する神社に指定されていた。

 

寒田神社 松田町重要文化財(史跡)

西暦四〇〇年頃の古代に創建されたと言われる由緒のある神社で延長五年(九二七年)に国が作成した延喜式神名帳に、相模国十三座の内「足上郡一座小寒田の神社」と明記されています。

古代には、箱根越えの旅人が足柄道の通行の途中、この神社に旅の安全を祈願したと言われ、倭建命、更に文明四年(一四七二年)に弟橘比売命を合祀、大正二年に天神社二社、昭和三十六年に庶子八幡社を合祀しています。

神宝の椀 松田町重要文化財(工芸)

この椀は、弥生時代後期の作と言われ、神社創建の頃から御神宝として保存されてきています。

材質は、けやきで塗りの跡はなく、高台が特に高くロクロ目が荒く表面が輪なりにごつくて縄文のように見えます。

なお、全体の形は、ふっくらとして、量感に富んでいて、格調の高い作品です。

 

延喜式内社について

延喜式とは平安時代中期醍醐天皇の時に完成した法制書です

この式の神明帳に記載されている神祇官の管轄する神社を延喜式内社略して式内社といって全国で二八六一社あります 相模国には十三の神社名がのっています

当社はその一つです

このことから寒田神社は県西地区では唯一の式内社で延喜式の完成当時すでに有力な神社としてこの地に鎮座していたことがわかる古社です 社伝では仁徳天皇三年(西暦三一五年)の御創建で古来より篤い信仰を集めていた由緒ある神社です

創建は不詳。

弥生時代後期のものとされる神宝の椀があることから、その頃には既に当地で祭祀が行われていたとみられています。

社伝によれば仁徳天皇3年(315)の創建。

 

延喜式神名帳にみえる「相模国足上郡 寒田神社」に比定されています。

 

往古より上下の崇敬篤く、建久4年(1193)源頼朝が富士の狩に当って松田亭から年々十石を奉献。

文明4年(1472)に社殿再興、弟橘比売命を合祀。

寛永3年(1626)徳川家光が朱印地百五十石を寄進。

承応3年(1654)、酒匂川の未曽有の大洪水により、朱印地の8割、神主宅をはじめ倉、宝物、朱印状、古文書等悉く流失。

慶応4年(1868)社殿再建。

 

明治6年郷社列格。

大正2年松田庶子にあった無格社天神社2社を合祀。

昭和16年県社昇格。

昭和36年松田庶子の八幡社を合祀。

 

現在の祭神は倭建命、弟橘比売命、菅原道真公、誉田別命。

弟橘比売命は文明4年の合祀、菅原道真公と誉田別命は明治以降の合祀です。

 

となると、当初の祭神は倭建命となります。

しかし、『式内社調査報告』では「当社の祭神をはじめから倭建命であったとするのもいささか無理があるやうに思ふ」、「寒田神を祭つた時代があつたやうに考へられる」とし、肝心の寒田神については「詳らかになし得ない」とします。

 

『特選神名牒』は祭神日本武尊説を総国風土記の説として否定。

『相模の古社』では、『特選神名牒』による批判を酷だとした上で、総国風土記の成立を鎌倉から南北朝期と推定し、その頃には日本武尊が祭神となっていたのではないかとします。

そして、創建当初の祭祀対象として、清い田の精霊を挙げています。これは、「寒」が「清い・神聖な」という意味で(寒川神社の寒も同様)、寒田とは清い田を意味するため。

さらに、明治頃までは当社周辺は水田に囲まれていたとみられることから、創建当初、神社の近くにもっとも古い田があり、その田の中に泉が湧いていた、あるいは付近に泉があり水を引いていたことから、その田が清く神聖視されたのではないか、と推測しています。

そして、後に社殿が設けられる頃に日本武尊が祭神となったのではないかとしています。

 

度会延経の『神名帳考証』では素盞鳴尊説が挙げられています。

御朱印

御朱印はあります。

社務所で拝受可。

オリジナル御朱印帳も2019年に出たようです。

アクセス

新松田駅北口を出て西へ。

信号のある交差点を左折(南へ)。

次の交差点、右手(西側)に社号標が見えますので、その道を行くと神社前へ。

 

この辺から車で境内に入れます。

周辺の道が狭いので注意。

神社概要

社名寒田神社(さむたじんじゃ)
通称
旧称神田明神社
住所神奈川県足柄上郡松田町松田惣領1767
祭神

倭建命

弟橘比売命

菅原道真公

誉田別命

現祭神
素盞鳴尊『神名帳考証』
社格等

式内社 相模国足上郡 寒田神社

旧県社

札所等
御朱印あり
御朱印帳あり
駐車場あり
公式Webサイトhttps://samutajinjya.jp/
備考

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