前鳥神社。
平塚駅の北北東約3.5km、四之宮に鎮座。
式内社 前鳥神社に比定される神社で、相模国四宮。
境内
一の鳥居
扁額
社号標
奨学神社社号標
橋
二の鳥居
狛犬
脇参道の鳥居
扁額
社号標
中世・近世はこのように前「取」とすることが多かったそうです。
狛犬
社殿
拝殿
扁額
本殿
境内社等
神戸神社
奨学神社
祖霊社
祖霊社狛犬
祠
境内社
境内社
境内社狛犬
境内社 稲荷社?
境内社お狐さん
弟橘媛命歌碑
幸せの松
幸せの松
この松の木は稀に四本の葉をつけた松葉が見つけられます。
いつの頃よりか「しあわせの松」と呼ばれ、この四合わせの松を身に付けると運が開け幸運を招くと伝えられています。
大欅
御神木 大欅
境内に立ち並ぶ欅の巨木の中でも、随一の樹高と枝ぶりを誇る大樹である。樹齢は約三百年といわれるが、その樹勢はなお盛んであり強い生命力を感じさせる。天高く真直にそびえ立つ樹形は美しく、御神木が前鳥大神とともにこの地を見守り、人々も大神の鎮まる森を仰ぎ守ってきた永き歴史を今に伝える。
鐘楼
撞くことができます。
宝篋印塔
花供養碑
近藤雪竹先生書碑
筆墨塚
川戸先生句碑
神武天皇遥拝所
風化して読めない碑
天祖参神の碑
神楽殿
社務所・研修殿
四之宮の渡し
江戸時代、幕府は相模川の架橋を禁止し、相模川の渡河は、幕府が定める馬入や田村の渡しによって行われていました。
相模川の対岸に飛び地を持つ村々は、飛び地に開けた農地を耕作するため独自に渡し場を設けていました。四之宮の渡しもこうした渡し場の一つでした。
江戸時代のはじめ、徳川家康が江戸と中原御殿を往来したとき、四之宮の渡しも利用していたようで、そのときの話が「四之宮の逆さ舟」「箸立の森」などの言い伝えとして残っています。
実際の渡し場の位置は、川の流れの変動に応じて、目久尻川合流点付近から前鳥神社付近の間でたびたび移動していました。
四之宮の渡しは、昭和三十年(一九五五年)頃まで使用されていましたが、その後廃止されました。
上記案内板は土手の下に立っています
土手の向こうはグラウンドになっていました。このグラウンドの向こう(写真奥)が相模川です。
由緒
御祭神
菟道稚郎子命 大山咋命 日本武尊
境内社
神戸神社 奨学神社 祖霊社 稲荷社
御由緒
前鳥神社の創祀は奈良時代以前、第十五代応神天皇の皇子菟道稚郎子がこの地へ移り住み、後にこれを祭神として祀ったことに始まると伝えられ、一六五〇年の歴史を有します。
奈良時代から十世紀半ばにかけて、この地には相模国府(現代の県庁)が置かれ、当神社は国府の鎮護として国司(県知事に相当)を始め官人により神拝がなされたと考えられます。十世紀初頭に醍醐天皇によって勅撰された『延喜式』神名帳では奉幣社の一社に挙げられ、十世紀末に大磯町国府本郷へ国衙が遷された後は国司巡拝社の第四番に列し、爾来相模国四之宮と称されております。
鎌倉時代には源頼朝公より夫人政子の安産祈願の神馬奉納に与り、将軍家御祈祷所と定められたことが『吾妻鏡』に記されます。続く室町・安土桃山時代の動乱を経て衰微しましたが、徳川氏の崇敬篤く、家康公より社領地十石の寄進と朱印状を得て再興いたしました。江戸幕府成立後は、将軍家武運長久の祈願所と定められ、「四之宮大明神」として身分の上下を問わず広く信仰されてまいりました。
現在は渡来人から最新の学問を学び、その技術を篤く庇護した御祭神の生涯に因み、学徳・就職・安全守護の前鳥大神として広く尊崇を集めています。
年間祭典
一月一日 歳旦祭 二月三日 節分祭 二月十七日 祈年祭 三月第二日曜日 奨学神社例祭
五月五日 相模国府祭 五月第三土曜日 崇敬会大祭 六月三十日 夏越の大祓
七月第二日曜日 八坂神社例祭 九月二十八日 御本社例祭 十一月二十三日 新嘗祭
十二月二十三日 天長節祭 十二月三十一日 師走の大祓 毎月一日・十五日・二十八日 月次祭
創建は不詳。
社伝によれば養老年中以前には鎮座していたとされます。
延喜式神名帳にみえる「相模国大住郡 前鳥神社」は当社に比定されています。
建久3年(1192)、源頼朝が政子の安産祈願にあたり神馬奉献。
天正19年(1591)、徳川家康が社領十石寄進。
明治6年郷社列格。
また、相模国府祭に参加する神社の一社となっています。
現在の祭神は菟道稚郎子命、大山咋命、日本武尊の三柱。
このうち、大山咋命は明治43年に合祀された日枝神社の祭神。
日本武尊は、昭和61年に合祀されたとWikipediaにありますが、出典不詳。
以上から、本来の祭神は菟道稚郎子命一柱だったということになります。
菟道稚郎子命は応神天皇の皇子で、兄皇子らをおいて皇太子とされるものの、大鷦鷯尊(仁徳天皇)と皇位を譲り合った末に自殺したとされます(『日本書紀』の記述。『古事記』では「早く崩りましぬ」とのみ)。
この神を祭神とする神社は大変珍しく、当社の他には宇治神社および宇治上神社のみだといわれます。
なぜ当社に祀られているかも定かではなく、当地が菟道稚郎子命の名代だったからとか、実は生きており東国に赴き当地に留まったとかの説があります。
当社の西約1.4kmの場所にあった真土大塚山古墳(現在は消滅、跡地の一部には神明神社が鎮座。すぐ北の真土大塚山公園に復元墳丘あり)からは、三角縁神獣鏡等が出土しています。
被葬者は不明ですが、菟道稚郎子命とか、在地の大豪族とかの説があります。
当社の社名について、『特選神名牒』は、前「島」神社としています。
同書に「今按注進状に当社の境域は馬入川の岸に突出して出水の為に多く流捐ず崎処と云べき地勢なれば前島神社と云るならんと云り」とあります。
かつては相模川の下流地域は海で、相模川によって運ばれ海に流出していた土砂が、西南風に吹き上げられ、それに土地の隆起現象と相まって陸地に固定され砂丘となった(湘南砂丘地帯)とされ、当社地は海の中の砂丘の島だったと考えられています。
ここから、本来は前島神社であったのが、前鳥神社に誤記されたとする説もあります(地名もそれに引きずられてサキトリになったとする)。郷土史家をはじめとして、これを支持する論者も多いようです。
ただし、『式内社調査報告』は、『東大寺正倉院文書』天平7年相模國封戸租交易帳残簡に「埼取郷」とあるため、奈良時代にサキトリと呼ばれていたことが確実で、『和名抄』に「前取郷」、『延喜式』諸本に「前鳥神社」、『吾妻鏡』等の中世文書にも「四宮前取大明神」などとあることから、前島神社説には否定的です。
御朱印
御朱印はあります。
社務所で拝受可。
オリジナル御朱印帳もあります。
アクセス
東名高速の厚木ICを平塚方面に、あるいは新東名高速の厚木南ICを平塚方面に降り、国道129号を南下。
東真土二丁目交差点(位置)を左折し、650mほど先の前鳥神社入口交差点(位置)を左折。
突き当りに一の鳥居があり、その左手に駐車場があります(位置)。
または、新湘南バイパスの茅ヶ崎中央ICを降り、県道44号を西へ向かうと、相模川を渡るとすぐ前鳥神社入口交差点に出ます。
バスなら、平塚駅北口発・本厚木駅南口行、あるいは本厚木駅南口発・平塚駅北口行に乗り、前鳥神社前で降車。
また、平塚駅西口を北に出たところでレンタサイクル(1日200円)があるので、これを使う手もあります。
神社概要
社名 | 前鳥神社(さきとりじんじゃ) |
---|---|
通称 | – |
旧称 | 四之宮大明神 |
住所 | 神奈川県平塚市四之宮4-14-26 |
祭神 | 菟道稚郎子命 大山咋命 日本武尊 |
社格等 | 式内社 相模国大住郡 前鳥神社 相模国四宮 旧郷社 |
札所等 | – |
御朱印 | あり |
御朱印帳 | あり |
駐車場 | あり |
公式Webサイト | http://www.sakitori.jp/ |
備考 | – |
参考文献
- 「四之宮村」, 『日本歴史地名大系』(データベース「JapanKnowledge」)
- 「前鳥神社」, 神社本庁教学研究所研究室編『平成「祭」データ(CD-ROM)』全国神社祭祀祭礼総合調査本庁委員会, 1995
- 式内社研究会編『式内社調査報告 第十一巻 東海道6』皇學館大学出版部, 1976
- 谷川健一編『日本の神々 神社と聖地 第十一巻 関東』白水社, 1984
- 明治神社誌料編纂所編『府県郷社明治神社誌料 上巻』明治神社誌料編纂所, 1912(国会図書館デジタルコレクション 280コマ)