大須伎神社(今治市高橋乙)

大須伎神社。

今治市高橋乙に鎮座。

式内社 大須伎神社に比定される神社。

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境内

社頭

 

社号標

 

参道石段

もう少し下に鳥居や河上安固の腰掛岩(蒼社川治水を成した人の座ったといわれる岩)があるようですが、気づかず(駐車場が上なので、全部歩いていない)。

 

参道脇に仁王門

 

注連柱

 

狛犬

 

手水舎

社殿

拝殿

 

本殿

境内社等

社殿左手に上へと登る道があり、赤い鳥居が建っています

 

鳥居

木が鬱蒼と茂っており、少し怖い道。

 

手水舎

ここで折り返し。

 

鳥居

ここから石段。

 

稲荷神社社号標

 

最後の鳥居

 

稲荷神社拝殿

 

お狐さん

 

稲荷神社本殿

 

本殿の後方隅にあった石

 

稲荷神社の御由緒

此の山の顛の稲荷神社は慶長の昔藤堂高虎侯が山城国伏見稲荷神社を勧請せられた御社であります。始め高虎侯が今治城を築城の時方数間もある荘麗無比の社殿を建てられ、この御神霊を城内に祀められたが程なく国替えとなり、初代久松定房侯が城主となるに及んで御信仰ことの外厚く寛文十年伊予熊野神社を再興せられた時社殿を建てて稲荷神社の御神霊をここに遷されました。

代々の藩主は二月の初午祭と十一月の例祭ごとに近臣を使わして御代拝せしめた他、毎年一度ずつ自ら御参拝になって幣帛を奉り厚く御尊崇になられました。

高虎侯が計畫した百分の一の模型は現に此の殿内に奉安してあります。これは定房侯が今治城内よりここに奉遷せられたものであります。

 

雨乞い石

 

御宝松

わかりづらいですが中央の木です。隣に見える赤いのは展望台のようなのですが、木が繁茂しすぎて眺望はなし…

 

案内板

雨乞石

古代から大旱魃の年には、村民が此の石の許に集まって、雨乞祈祷を行った。その時不思議にも此の石が潤い、くぼみに水滴ができ、大降雨となって恵みの雨を戴いたと伝えられている。

御宝松

この石積の中に御宝松と称する樹齢百年を経た老松があった。その昔これを切ろうとした時、一羽の鳥飛来して鳴いて切らさず、

爾来村民はこれを御宝松と称して崇めたが樹齢つきて枯死した。その鳥の止まった御宝松の姿を描いた狩野某の絵は、当社の宝物としていたが、昭和二十年宝物庫の戦災で焼失した。御宝松の跡に実生した二代松も松食虫の被害を受けたため現在の松を移植した。

 

石祠群

 

駐車場へ向かう道の途中にあった石祠

旧地

当社は明治44年までは字倉橋の蒼社川堤防下にあったといい、現在旧地は児童公園になっているといいます。

神社の北東、五叉路の角に鳥居が建つ公園があります(位置)。

字倉橋かはわかりませんが、川沿いに位置する公園で、社殿がなく鳥居だけがあるという条件からしてここが旧地のような気がします(旧地とは無関係の御旅所かもしれませんが…)。

由緒

式内名神 大須伎神社御由来

祭神 少名毘古那命 阿遅鋤高日子根命 伊邪那美命 熊野忍隅命 品陀和気命 息長帯姫命

当社は推古天皇の四年(約一、四〇〇年前)厩戸皇子の神号の扁額を親書奉納ありし程の名神にして上古より官民の崇敬厚く醍醐天皇の勅命を以て毎年幣帛を奉ることとなっていた

天皇は延喜十二年左大臣藤原忠平に勅し全国から神徳殊に顕著な名神二、六六一社を撰び延喜式神社名帳に記載しこれを式内社と称し県内に二四座今治越智地区に七社あり大須伎神社は其の一つにして昔時より参拝者多し

伊予熊野神社は初代藩主定房公以来歴代藩主の祈願所として崇敬厚く社殿を造営し御初穂料を奉納される等特別の御縁故あり藩制時代から祭礼には賑わしい行列が行われていた

小林八幡神社は国司玉純公の尊崇厚く神領水田を寄進された

明治四十四年社殿を此の地に奉遷し伊予熊野神社小林八幡神社を合祀す

前の社地は児童公園として現在に至る

 

祭日

春季大祭 五月十日

秋季大祭 十月十日

新嘗祭 十一月

月次祭 毎月一日

祈年祭 二月

創建時期は不詳。

当地はかつての高橋郷の中心地で、高橋氏(物部氏族)により開拓されたとみられ、当社も高橋氏による奉斎と推測されています。

 

推古天皇4年(596)、厩戸皇子の親筆神名額の奉納があったと伝わります。

 

延喜式神名帳にみえる「伊予国越智郡 大須伎神社」は当社に比定されています。

また伊予国神名帳にみえる「正三位 大次大明神」も当社とみられています。

 

元は蒼社川の堤防下にあったため(旧鎮座地については上掲旧地項参照)、延喜16年(916)、寛弘8年(1011)、承久2年(1220)、正長元年(1428)と度々洪水に遭い社殿流出したとされます。

また戦乱により神田も荒廃したといい、こうした事情もあってか近世以前の由緒はほぼ不詳。

 

近世の『今治領寺社明細細言上書』には伊予熊権現や小林八幡宮の下に「一、大須岐大明神 神殿貳尺五寸四面」とのみ記載される末社的な扱いとなっていました。

 

現鎮座地には元々伊予熊権現(伊予熊野神社)が鎮座しており、明治44年に大須伎神社と小林八幡神社を合祀、社号を大須伎神社として現在に至ります。

由緒書には「社殿を此の地に奉遷」とありますが、現社殿が大須伎神社の旧地から遷されてきたものなのか、元からあった伊予熊野神社のものなのかは不明(『式内社調査報告』には社殿の造営に関する変遷未詳とある)。

 

現祭神は境内由緒書によると、少名毘古那命、阿遅鋤高日子根命、伊邪那美命、熊野忍隅命、品陀和気命、息長帯姫命。

愛媛県神社庁のサイトによると、少那毘古那命、伊邪那美命、速玉男命、品陀和気命、多伎都姫命、多伎理姫命。

少し違いはありますが、大須伎神社、伊予熊野神社、小林八幡神社の祭神が合祀されている形と思われます。

 

この内、大須伎神社祭神は少名毘古那命と阿遅鋤高日子根命。

『神名帳考証』は「木神 大殿祭祝詞云屋船久々遅命是木霊也」、『愛媛面影』は祭神不詳(一説に少彦名命)、『豫州二十四社考』は祭神不詳としており、現祭神に定まったのは幕末~明治初年頃のようです。

少名毘古那命は『愛媛面影』にあるように元々そういう説もあったようですが、阿遅鋤高日子根命については祭神に定められた経緯不詳。『特選神名牒』では「大須伎」の音からあてたのではないかと推測されていますが。

御朱印

御朱印の有無は不明。

時間の余裕がなかったため、確認できず。

アクセス

今治市中心部から国道317号を南西に向かい、鴨部橋西交差点(位置)で右手に折れます。

最初の六叉路を左斜め前方に進み、そこから300m弱先(位置、大須伎神社の案内あり)で左に折れると、すぐ先に神社表参道の石段が現れます(位置)。

石段下から右手の道を進み(駐車場の案内板あり)、坂を登っていきます。

分岐が何度かありますが、左側を選べばOK。ただし、上掲の石祠のところ(位置)だけは曲がらず直進。

駐車場手前辺りの道は草木が道にはみ出してきていたので、少し走りづらいです。

境内より少し下(位置)に駐車場と思われるスペースがあります。境内横まで上っていっても停めるスペースはあります。

神社概要

社名大須伎神社(おおすぎじんじゃ)
通称
旧称

大須岐大明神

大次大明神

住所愛媛県今治市高橋乙358-3
祭神

少名毘古那命

阿遅鋤高日子根命

伊邪那美命

熊野忍隅命

品陀和気命

息長帯姫命

現祭神

屋船久々遅命

『神名帳考証』
社格等

式内社 伊予国越智郡 大須伎神社

旧村社

札所等
御朱印不明
御朱印帳
駐車場あり
公式Webサイト
備考

参考文献

  • 「大須伎神社」「伊予熊権現」, 『日本歴史地名大系』(データベース「JapanKnowledge」)
  • 「大須伎神社」, 神社本庁教学研究所研究室編『平成「祭」データ(CD-ROM)』全国神社祭祀祭礼総合調査本庁委員会, 1995
  • 式内社研究会編『式内社調査報告 第二十三巻 南海道』皇學館大学出版部, 1987