大森神社。
高山市一之宮町、位山の北麓に鎮座。
式内社 水無神社の元宮という説のある神社。
社殿
田んぼと原っぱ(空き地?)、住宅に囲まれて小さな社殿があります。
社殿
扁額
由緒
創建時期は不詳。
貞観年中代々の国司入国の際、必ず参拝したと伝えられていますが、寿永(1182~83)から衰退したとされます。
天正9年(1581)内記助左衛門が再興。
1700年代中盤頃(1968発行の宮村史に200年前とあるため)は境内には大樹が生い茂り社殿も立派で、祝日や神拝日には賑わったといいます。水無神社の屋根葺替の際に祭神を当社に奉遷したり、逆に洪水のため当社祭神を水無神社に奉遷したりといったこともあったそう。
文久元年(1861)11月に本殿再興、洪水により水無神社に長い間奉遷されていた祭神を復遷、現在に至ります。
当社が水無神社の元宮であるという伝承があります。
宮村史(1968年度版)に以下のようにあります。
宮村史(1968)
延長4年(1072)9月、内記修理亮藤原善綱は大江橘俊里公(三條天皇御裔)が水無神社神職として補任され、その随従として来村したことが往還寺文書に出ているが、その時内記氏は位山の麓坂下に城廓を構えて城主となった。その確否はそのまま信ぜられないにしても、水無神社の守護役として内記氏がこの地にとどまったことは、推測できることである。内記氏の子孫である内記助左衛門藤原善秋が、一宮水無神社山下利国と争って破れたことがあるのは、神社を中心とする豪族の勢力争いであった。水無神社が最初から現在位置であったかどうか。宮村が往古の官道位山道の北の要衝であり、しかも位山峠に向かう最初の登り口である現在地に鎮座し給うたことは、交通神的性格から一応考えられることではなかろうか。
当神社が水無神社の元宮であるという村人の伝承と、現在地の宮川対岸に字ミズナシという地名があり、その隣接地弥陀ヶ洞の法蔵菩薩堂(後に水無神社境内に移された)、更に南隣接地にミドノウスロと呼ぶ地名があるが、中世両部神道が当神社にも行われていたことが考えられる。また、祭神が大歳神であることがミズナシ(ミヌシ水主)に関係が深い。水無神社の前の水無磧の名称はむしろ鬼川原伝説に由来しているが、ここのミズナシは社号としては自然である。
位山道の登り口という交通の要衝である当地が水無神社の当初の鎮座地であり、その後の豪族の勢力争いに伴い遷座されたとする説が提示されています。
また、宮村史(2004年度版)には次のようにあります。
宮村史(2004)
大森神社は水無神社の元宮であるという伝承がある。ここで言う元宮とは水無神社の社地がはじめはここ大森垣内であったが、たび重なる水害を避けて現在の地に移遷されたというのである。
たび重なる洪水に耐えられず止むなく現地に移転したとする説も、治水工事の無かった昔、妄説としてむやみに無視することはできない。
こちらは水害の影響で移転したとする説です。
現在、当社は水無神社の分社という扱いになっています。
御朱印
御朱印の有無は不明。
アクセス
水無神社前の一之宮交差点(位置)から県道98号を西へ向かいます。
2km弱行ったところで県道453号が分岐(位置)しますので、453号の方(右手の道)へ。
453号に入って最初に出てくる分岐(位置)を左に入り70mほどで右手に神社。
駐車場はありません。
神社概要
社名 | 大森神社(おおもりじんじゃ) |
---|---|
通称 | – |
旧称 | – |
住所 | 岐阜県高山市一之宮町2030(?) ※旧住所:岐阜県大野郡宮村字谷掛2030 |
祭神 | 大歳神 |
社格等 | 式内社 飛騨国大野郡 水無神社(旧地) 日本三代実録 貞観九年十月五日庚午 水无神 従五位上 日本三代実録 貞観十年七月廿七日戊午 水無神 正五位下 日本三代実録 貞観十三年十一月十日壬午 水無神 正五位上 日本三代実録 貞観十五年四月五日己亥 水無神 従四位下 日本三代実録 元慶五年十月九日甲申 水无神 従四位上 旧無格社 |
札所等 | – |
御朱印 | 不明 |
御朱印帳 | – |
駐車場 | なし |
公式Webサイト | – |
備考 | 水無神社の元宮説あり |
参考文献
- 岩井正尾編『宮村史』宮村教育委員会, 1968
- 宮村史編集委員会編『宮村史 通史編 2巻』宮村, 2004