名和神社(大山町名和)

名和神社。

別格官幣社で、建武中興十五社の一社。

境内

鳥居。この参道には桜が植えられていて、開花の時期には桜のトンネルになるのだとか。ちなみにすぐそばの名和公園も桜の名所だそうです。

 

手水舎

 

太鼓倉

 

案内札

此の太鼓は安政5年鳥取県八頭郡河原町鹿野の山中より切り出した﨔の一木で造ってある。元鳥取城にて使用していたが廃藩の後、八橋郡内小学校の教師及び有志により拂い受け、明治11年に当社に奉納されたものである。

昭和7年西伯郡畜産組合の有志により張り替え修復、次いで昭和61年11月名和長年公御殉節650年奉賛会により張り替え修復せられた。

 

注連柱

 

神門

社殿

拝殿。改修中でした。

 

帆掛船紋

 

本殿

境内社

参拝時には気づきませんでしたが、瑞垣内に末社・臣神社があります。

境外摂社として、延宝5年(1677)から明治16年(1883)まで当社が鎮座していた日吉坂の地には、氏殿神社があります。

また当社参道を北に進み海岸沿いに出、東へ行くと後醍醐天皇が隠岐からの脱出の際に腰掛けたという「後醍醐天皇の御腰掛の岩」があります。

御腰掛の岩のすぐ南、県道269号沿いには後醍醐天皇御着船所があります。

由緒

境内由緒板

建武の忠臣名和長年公はじめ、一族四十二名をまつる神社。

元弘3年(1333年)、長年公は隠岐島に流されていた後醍醐天皇の脱出を助け、天皇を船上山に迎え鎌倉幕府軍を破った。

後醍醐天皇は、この年、鎌倉幕府を倒し、天皇親政を復活(建武の新政)、長年公はこの新政権で重用された。

現在の社殿は昭和10年に完成。建築界の重鎮伊藤忠太の指導のもと、明治神宮を造営した角南隆が手がけた。本殿から日本海を望むと、海を越え一直線上に後醍醐天皇隠岐行在所がある。

また、境内は名和公の米倉があった所で、合戦の折りこれを焼き払ったため、神社の裏から今でも焼き米が出てくる。

(※写真を撮り損ねていたため、Web上に複数upされている当社由緒板の写真から内容を転記させていただきました)

承応-明暦(1652-58)の頃、名和長年の屋敷跡とされる地に当地の人たちが小祠を建立し、氏殿権現と称したのが始まり。

延宝5年(1677)鳥取藩主池田光仲が、家臣大窪友尚の建言により日吉坂の傍らに社殿を造営し遷座。

明治6年(1873)県社に列格、氏殿神社と改称。

同11年(1878)別格官幣社に列格、名和神社と改称。名和長重ほか家臣41柱を配祀。

同16年(1883)氏子らが寄進した長者原の現社地(名和公の米倉跡)に遷座、日吉坂の旧地は摂社氏殿神社となりました。

祭神

主祭神の名和長年は南北朝時代の武士。

名和氏ははじめ伯耆国汗入郡長田荘にあり、長田氏を称していましたが、長年の父行高の時名和荘に移り名和氏と称したといいます。

元弘の乱で隠岐に流された後醍醐天皇が元弘3年(1333)に脱出し伯耆に上陸した際、長年はこれを船上山に迎え倒幕に参加。

幕府滅亡後、建武新政のもとでは伯耆守に任ぜられ、恩賞方、記録所、雑訴決断所などの要職を務め、帆掛船の家紋を賜ります。

ところが建武2年(1335)足利尊氏が建武政権から離反。

天皇方は一旦はこれを破り、尊氏は九州へ下りますが、翌延元元年(1336)態勢を立て直した尊氏は東上、湊川の戦いで新田・楠木軍を破り入京。

長年はこれと戦うも敗れ戦死。

延元元年6月30日(1336年8月7日)没。

明治11年(1878)長年の後裔、名和長恭は当社の宮司に任ぜられ、同17年男爵位を授けられています。

現在の宮司さんも名和氏の後裔なのかもしれません。少なくとも昭和30年代発行の「神社名鑑」では宮司は名和さんの名が記されています。

御朱印

御朱印はあります。

神門横の社務所で拝受可。

なお、当社含む建武中興十五社の案内記として、「南朝関係十五神社巡拝案内記」という冊子が発行されています。建武中興十五社各社で頒布されているとのこと。

こちらには御朱印帳としてのページもあるので、一応オリジナル御朱印帳と言えるかも…?

ただ、発行が2004年なので、今も残っているかはわかりません。

アクセス

山陰道名和ICから北へ、2つめのみどり区公民館前交差点を左折し直進すると神社裏へ。

駐車場は参道入口にあります。

徒歩なら山陰本線名和駅から徒歩6分ほど。

神社概要

社名名和神社(なわじんじゃ)
旧称

氏殿権現

氏殿神社

住所鳥取県西伯郡大山町名和556
祭神

名和伯耆守源朝臣長年公

名和一族戦没将士四十二柱

社格等

旧別格官幣社

別表神社

建武中興十五社

御朱印あり
御朱印帳あり(?)
駐車場あり

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