名和神社(大山町名和)

名和神社。

大山町名和に鎮座。

建武中興十五社の一社。戦前は別格官幣社で、現在は神社本庁の別表神社。

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境内

社号標

参道を下った県道269号との交点にあります。

 

鳥居

この参道には桜が植えられていて、開花の時期には桜のトンネルになるのだとか。ちなみにすぐそばの名和公園も桜の名所だそうです。

 

扁額

 

社号標

 

手水舎

 

太鼓倉

 

大太鼓の由来

銘 鼓声一発 三軍皆依 敬之戒之 要在此機

径 一米六〇糎(五尺二寸八分)

長サ 一米七〇糎(五尺六寸)

此の太鼓は安政5年鳥取県八頭郡河原町鹿野の山中より切り出した﨔の一木で造ってある。元鳥取城にて使用していたが廃藩の後、八橋郡内小学校の教師及び有志により拂い受け、明治11年に当社に奉納されたものである。

昭和7年西伯郡畜産組合の有志により張り替え修復、次いで昭和61年11月名和長年公御殉節650年奉賛会により張り替え修復せられた。

 

参道

 

注連柱

 

神門

社殿

拝殿

 

帆掛船紋

 

本殿

境内社

瑞垣内に末社・臣神社

 

神楽殿

 

蔵?

 

境外摂社として、延宝5年(1677)から明治16年(1883)まで当社が鎮座していた日吉坂の地に、氏殿神社があります。

 

 

 

また当社参道を北に進み海岸沿いに出、東へ行くと後醍醐天皇が隠岐からの脱出の際に腰掛けたという「後醍醐天皇の御腰掛の岩」があります。

 

御腰掛の岩のすぐ南、県道269号沿いには後醍醐天皇御着船所があります

由緒

観光名所案内 名和神社

建武の忠臣名和長年公はじめ、一族四十二名をまつる神社。

元弘三年(一三三三年)、長年公は隠岐島に流されていた後醍醐天皇の脱出を助け、天皇を船上山に迎え鎌倉幕府軍を破った。

後醍醐天皇は、この年、鎌倉幕府を倒し、天皇親政を復活(建武の新政)、長年公はこの新政権で重用された。

現在の社殿は昭和十年に完成。建築界の重鎮伊藤忠太の指導のもと、明治神宮を造営した角南隆が手がけた。本殿から日本海を望むと、海を越え一直線上に後醍醐天皇隠岐行在所がある。

また、境内は名和公の米倉があった所で、合戦の折りこれを焼き払ったため、神社の裏から今でも焼き米が出てくる。

 

縁起

鳥取県伯耆国西伯郡名和村字長者原鎮座

別格官幣社 名和神社

祭神 名和長年卿

合祀 御一族戦没将士四十二名

祭日 五月七日

由緒

長年卿は村上天皇第十六世の裔にまして御父を行高と申し奉る

卿は元弘建武の忠臣にして元弘三年後醍醐天皇を船上山に奉し賊を撃ち功を建て給ひ建武元年因幡伯耆の守護に任し従四位下に叙せられ給ひしが延元元年足利尊氏叛するに及び尊氏の軍と激戦数度刀折れ力尽き延元元年「紀元千九百九十六年」六月晦日遂に京都六条の大宮に戦死し給ふ御一族将士も亦或は討たれ或は自害して悉く殉死し給へり

承応明和の頃名和村地内名和氏邸趾と称する所に地方の民一小祠を建て其の徳を追慕奉斎して氏殿権現と称したり

延宝年間因伯藩祖池田光仲公之れを崇敬し地を撰ひ新に社殿を拡張し給ひしが明治六年県社に列せられ氏殿神社と称し明治十一年「紀元二千五百三十八年」一月十日別格官幣社に列せられて名和神社と改称す明治十六年四月元の社地を去ること約十町字長者原と称する往昔名和氏廩倉の趾地「元弘三年義挙の時貯米を焼き捨て給ひ所にして今尚地底より焦米古釘等出づ」即ち今の社地に移転し奉りしが同年八月六日従三位を贈られせられ給ふ 昭和十年五月従一位を贈せらる

 

碑文

名和神社は、もと氏殿権現と称し、名和町坪田に御鎮座ましましたが、明治六年には県社に昇格され、氏殿神社と改められました。同十一年には、御祭神名和長年公をはじめ、御一族の忠勤をよみせられて名和神社と改称し、別格官幣社に列せられ、同十六年には、神域を長者原の地に定め、新社殿を造営されました。

爾来、皇室の御崇敬も厚く、御神徳は赫赫と輝き、明治四十年と、大正六年には東宮行啓の栄に浴しました。

しかるに終戦以後は、祭政の一致は憲法の禁ずるところとなり、神社の経営も困難をきわめ、社殿の維持、修理にすら事を欠く状態に至りました。

そこで、御祭神名和長年公御殉節六百五十年を記念いたし、町内の有志相寄り、奉賛会を組織し、広く浄財を求めたのであります。

名和町内はもとより、淀江、大山、中山町及び日吉津村では全戸に御協力を頂きましたが、とくに関係深い方々には、奉賛会の役員が出向き、御協力をお願い申上げました。

その結果、近隣の町村、県内は申すに及ばず、全国各地から御賛同を賜わり、所期の目的通りに社殿の修復、建物の新設、環境の整備などをおこなうことが出来ました。

これもひとえに、御祭神の御神徳のたまものであると関係者一同、深く感激しているところであります。

昭和六十一年十一月九日には、本殿の御遷宮をおこない、同十六日には、名和長年公殉節六百五十年の式年祭を斎行いたしました。

こゝに、式年祭と事業の完成を記念して、関係者一同の名を録すとともに、浄財寄附者の御芳名を刻して、長く後世に伝えるものであります。

 

承応~明暦(1652~58)の頃、名和長年の屋敷跡とされる地に当地の人たちが小祠を建立し、氏殿権現と称したのが始まり。

 

延宝5年(1677)鳥取藩主池田光仲が、家臣大窪友尚の建言により日吉坂の傍らに社殿を造営し遷座。

 

明治6年(1873)県社に列格、氏殿神社と改称。

同11年(1878)別格官幣社に列格、名和神社と改称。名和長重ほか一族42柱を配祀。

同16年(1883)氏子らが寄進した長者原の現社地(名和公の米倉跡)に遷座、日吉坂の旧地は摂社氏殿神社となりました。

 

主祭神の名和長年は南北朝時代の武士。

名和氏ははじめ伯耆国汗入郡長田荘にあり、長田氏を称していましたが、長年の父行高の時名和荘に移り、名和氏と称したといいます。

 

元弘の乱で隠岐に流された後醍醐天皇が元弘3年(1333)に脱出し伯耆に上陸した際、長年はこれを船上山に迎え倒幕に参加。

幕府滅亡後、建武新政のもとでは伯耆守に任ぜられ、恩賞方、記録所、雑訴決断所などの要職を務め、帆掛船の家紋を賜ります。

 

ところが建武2年(1335)足利尊氏が建武政権から離反。

天皇方は一旦はこれを破り、尊氏は九州へ下りますが、翌延元元年(1336)態勢を立て直した尊氏は東上、湊川の戦いで新田・楠木軍を破り入京。

長年はこれと戦うも敗れ戦死。延元元年6月30日(1336年8月7日)没。

 

明治11年(1878)長年の後裔、名和長恭は当社の宮司に任ぜられ、同17年男爵位を授けられています。

現在の宮司さんも名和氏の後裔なのかもしれません。少なくとも昭和30年代発行の『神社名鑑』では宮司は名和さんの名が記されています。

御朱印

御朱印はあります。

神門横の社務所で拝受可。

なお、当社含む建武中興十五社の案内記として、「南朝関係十五神社巡拝案内記」という冊子が発行されています。建武中興十五社各社で頒布されているとのこと。

こちらには御朱印帳としてのページもあるので、一応オリジナル御朱印帳と言えるかも…?

ただ、発行が2004年なので、今も残っているかはわかりません。

アクセス

山陰道名和ICを降ります。

降りてすぐの道の駅大山恵みの里前の交差点(位置)を左折。

500mほど先(位置)で右折。

700mほど先(位置)で右折すると、左手に駐車場があります。

 

徒歩なら山陰本線名和駅から徒歩3分ほど(降りて右手の坂をまっすぐ登るだけ)。

神社概要

社名名和神社(なわじんじゃ)
通称
旧称

氏殿権現

氏殿神社

住所鳥取県西伯郡大山町名和556
祭神

名和伯耆守源朝臣長年公

名和一族戦没将士四十二柱

社格等

旧別格官幣社

別表神社

建武中興十五社

札所等
御朱印あり
御朱印帳あり(?)
駐車場あり
公式Webサイト
備考

参考文献

  • 「名和神社」, 『日本歴史地名大系』(データベース「JapanKnowledge」)
  • 「名和神社」, 神社本庁教学研究所研究室編『平成「祭」データ(CD-ROM)』全国神社祭祀祭礼総合調査本庁委員会, 1995
  • 鳥取県神社誌編纂委員会編『新修鳥取県神社誌 因伯のみやしろ』鳥取県神社庁, 2012
  • 鳥取県神職会編『鳥取県神社誌』鳥取県神職会, 1935(国会図書館デジタルコレクション 12-14コマ