粟嶋神社(米子市彦名町)

粟嶋神社。

少彦名命が粟の穂にはじかれて常世国へ渡っていった地とされる粟嶋(明神山)に建つ神社。

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境内

社頭

 

鳥居

 

社号標

 

粟嶋神社の自然と伝説

粟嶋は標高36mの小山です。かつては中海に浮かぶ小島でしたが、江戸時代中頃、周辺の新田開発のため干拓され、地続きとなりました。山全体がご神体とされ、神殿は麓にあったといわれています。現在は、187段の登りきった山頂に、銅板葺きの堂々とした社殿があり、少彦名命が祀られています。

社叢となっているこの山の植生は、スダジイ、タブノキ、モチノキなどの高木、ヤブツバキ、カクレミノ、ネズミモチなどの中低木と樹種に富んでいます。中海側の斜面にみられるツツジ科のシャシャンボは数多く群生し、うっそうとした独特の景観をつくりだしています。林床にはツワブキ、ベニシダ、テイカカズラなどの下草が群生しています。この地方では数少ない天然の照葉樹林です。

粟嶋神社に隣接した彦名干拓地は、日本有数の野鳥生息地です。コハクチョウの集団越冬地の世界南限地であり、絶滅の可能性もあるものも含め、多くの珍しい野鳥の宝庫となっています。

中海も含めた粟嶋の風景の美しさは今も昔も変わりません。江戸時代文政年間にうたわれた米子八景のなかで粟嶋は、「粟嶋秋月」として、「うき雲をはらひし風をあは島のしまにのこして月ぞすみける」と詠まれています。

「米子」の地名発祥伝説の地

昔、粟嶋村に住む長者には、長い間子供がいませんでした。

88歳になったとき初めて子どもを授かり、その子孫はたいそう繁栄したといいます。そこで縁起のいい「八十八の子」にちなんで「米子」の地名がついたという言い伝えがあります。

八百比丘尼の伝説

山麓の西側に「静の岩屋」とよばれる洞穴があります。

むかし、このあたりの猟師の集まりで出た珍しい肉を、一人の娘が食べてしまいました。それは不老不死になるといわれる人魚の肉でした。年をとらなくなってしまった娘は世をはかなみ、尼さんとなって800歳で亡くなるまで、この洞穴の中ですごしたという話が伝わっています。

 

大灯籠

 

手水舎

 

社日塔と一体化したような灯籠

 

石段前の鳥居

 

狛犬

 

石段

187段あります。けっこう登るのはしんどい。

 

石段上に随神門

 

社殿前の狛犬

新しめ。対して台座が古いのは、元は下記の狛犬がここにいたからでしょう。

 

境内脇に並んでいた狛犬

狛犬見聞録さんの記事では社殿前にこれとおぼしき狛犬が置かれています。当該記事の写真は平成17年時の物のようなので、そこから私の参拝した平成27年までのどこかで新しいのに場所を譲ったのかと思われます。

社殿

拝殿

 

扁額

 

本殿

境内社(山頂)

社殿付近にあった祠

 

出雲大社遥拝所

静の岩屋/大岩神祠

社殿の後方には、下りの山道が伸びており、「八百比丘尼」と案内が出ています。

上掲の境内案内板の地図から、ここを下りた近くに静の岩屋がありそうだったので下りてみました。

 

途中にあった穴

特にいわれはなさそうです。

山道自体はスニーカーでも降りられる程度の道です。

静の岩屋 

降りきると、山裾に「八百姫宮」の額が掛かった鳥居

 

鳥居横の祠

 

鳥居の奥には洞穴

柵があって入れないようになっています。

 

中を覗いてみましたが、暗くて何も見えず

仮に柵がなくても、この狭さでは大人は這わないと入れなさそう。

 

静の岩屋八百姫宮

昔、漁師の娘が誤って人魚の肉を食べて不老不死になり、八百歳まで長生きしたという伝説の洞穴である。

大岩神祠

静の岩屋から山裾を東(表参道側)へ進むと、大岩神祠があります。

 

山裾の道

 

大岩宮鳥居

 

かつては赤鳥居でした

 

 

大岩神祠

 

狛犬

 

お岩さん

少彦名命が粟嶋に上陸したと伝えられる場所。

 

大岩神祠

御祭神の少彦名命が粟嶋に到着され、最初に上陸された場所で、極めて霊験あらたかな聖地である。

 

由緒板

御岩宮祠

「お岩さん」と呼ばれるこの大岩は、その昔、神は海からおいでになると信じた古代人たちが、「海からたどり着かれた神様が、やれやれ着いたと、まっ先に抱きつかれた岩」すなわち「神の依代」として古くから信仰をされてきた。岩は石と同じで、石は「セキ」と読めるところから、風邪やセキによく効く神としておまいりする人が多い。又、古来、難病には霊顕あらたかな神であり満願成就のお礼としての寄進、奉納の記録も多い。

 

静の岩屋

八百比丘尼の伝説

昔、この辺りに十一軒の漁師がおり、粟嶋神社の氏子として毎月一回「講」という集まりをもっていた。ある時、一人の漁師がこの村に引っ越してきて、講の仲間に加えてもらった。一年後、その漁師が当番になった時、今までのお礼にとみんなを船に乗せ、龍宮のように立派な御殿に案内してもてなした。何日か経って帰る時、最高のご馳走として人魚の料理が出されたが、誰も気味悪がって食べず、たもとに隠して帰る途中で海に捨てた。ところが、一人の漁師が捨てるのを忘れたため、その家の十八歳になる娘が、父の着物をたたむ時見つけ、知らずに食べてしまった。それから後、娘は不老不死の体になり、何年経っても年を取らず、いつまで経っても十八歳の娘のままだったので、かえってこの世をはかなみ、尼さんになって自らこのほら穴に入り干柿を食べ、鉦を鳴らしつつ、息絶えたという。この時、娘の年令は八百歳になっていたので、村人達はこれをあわれんで、この娘のことを「八百比丘さん」とか「八百姫さん」と呼んで、ていねいに祀ったという。今でも、長寿のご利益があるとして、広く信仰をあつめている。

境内社(その他)

参道石段の途中に分かれ道と鳥居

 

鳥居の先に進むとお社

荒神宮というようです。

 

こちらも石段途中、荒神宮蝮蛇神祠の標柱

確か上記の荒神宮への分岐より少し上にあった気がします(記憶曖昧)。

 

細い道の先の行き止まりに、古びたのと新しいのと、祠が2つ

こちらが蝮蛇神祠でしょうか。

 

石段下右手の豊受宮

 

豊受宮の狛犬

 

御祈祷所

 

歳徳神

 

忠魂碑

 

歌碑「大汝 少彦名の いましけむ 志都の岩屋は 幾代経ぬらむ」万葉集巻三-三五五

この歌の「志都乃石室」はいくつか比定地があるのですが、当社の静の岩屋に比定する説もあるのでしょうか。

 

神社の西側、米子水鳥公園第一駐車場から見た明神山

真ん中ほどに本殿の屋根が見えます。

 

参道脇にある、かつての一の鳥居の柱

元々は現在の社頭から150mほど、神社を背にして進み県道47号を越えた次の角の辺りにありました。

その辺りが昔の海岸線で、「三文渡し」の舟着き場(渡し賃が三文だった)があり、粟島へは舟で渡っていたといいます。

 

粟嶋神社の鳥居

粟島は「伯耆国風土記」逸文(他の書物などに一部が引用されているだけで、完全な形では伝わっていない文章)にも記載されている島で、「出雲国風土記」意宇郡条にも「北の入海(中海及び宍道湖)」に面すると記され、中海に浮かぶ小島でした。

弓ヶ浜半島に灌漑用水(米川)を通すために元禄13年(1700年)から開削が始まり、江戸時代中期の米川開通後、彦名周辺の新田開発が急速に進みました。

特に、宝暦年間(1751年~1764年)に後藤治部左衛門は、砂山を崩し、米川を利用し用水へ流して中海を埋め立て、新田化する「流し新田」を中心に、沿岸部に大規模な新田開発を行いました。

この開発により海岸線は海側に前進し、粟島は陸続きとなりました。

粟嶋神社に向かう「一の鳥居」は、もともとは、内浜街道から粟島に向かう道の起点あたりにあったといわれ、一の鳥居から粟島までは渡し舟で往来が行われ、舟渡し賃が「三文」であったので「三文渡し」と呼ばれていました。

江戸時代中期の新田開発で鳥居と粟島の間の中海が埋め立てられて陸続きとなり、鳥居は内浜街道から粟島に向かう道をまたぐように立っていました。

その後、昭和40年頃に道路幅の拡張工事により大部分は撤去され一部(鳥居の西側片方の柱半分の基部)が記念として残されていましたが、平成28年(2016年)に交通の妨げになるため撤去され粟嶋神社の境内に移設されたものです。

なお、鳥居のあった位置を現地に表示しています。

この鳥居は、江戸時代の弓ヶ浜の様子や先人たちの新田開発の歴史を物語っています。

 

鳥居位置の地図

 

かつて鳥居があった辺り

案内板には「鳥居のあった位置を現地に表示しています」とありますが、特に何もありませんでした。

由緒

境内由緒板

粟嶋神社

御祭神 少彦名命(大己貴命・神功皇后)

御由緒 当神社の創建年代は不明だが、古代より神の宿る山(神奈備)としての信仰があり、神功皇后、後醍醐天皇御祈願の伝承、尼子氏の寄進、米子城主代々の崇敬等も記録に残る、長い伝承と歴史をもった社である。山頂の御社殿は昭和十一年十二月再建のものであり、総台湾桧造りで屋根は銅板葺き、弓浜地方随一を誇る。

御祭神の少彦名命は、神代の昔、大己貴命(大国主命)と共にこの国をひらき、人々に医療の法を教え、禁厭の術を授け、万病よりお救いになった神であり、その尊い御神徳は古事記、日本書紀に記されている通りである。

後に常世の国に御渡りになったその最後の地がこの粟嶋である。

御神徳 少彦名命は、難病苦難をお救いになる祖神様であり、殊に婦人の病気平癒延命長寿、安産、子授け、交通安全等の祈願多く、氏子はもとより古来広範囲にわたる庶民の篤き崇敬を集めている。

御祭日 春例大祭 四月十二日 夏祭 旧六月十一日 秋祭 十月十二日

風土記の里 粟嶋(米子市指定名勝・県指定天然記念物)

沿革 粟嶋は、伯耆国風土記逸文によると、少彦名命が粟の穂にはじかれて常世国に渡られたので粟嶋と名づけたとある。

江戸時代中頃までは中海に浮ぶ小島であったが、江戸時代末期に埋立てられて陸続きとなった。一の鳥居のあるあたりが、昔の海岸線であり「三文渡し」の舟着き場があった。

海抜三十八米、百八十七段の石段を登れば四方の眺望はまさに絶景、特に南側、本殿裏の小路を下って展望台に立てば、東の伯耆富士大山、米子平野から西の安来十神山に至るなだらかな稜線に囲まれた水路はまるで瀬戸内の景観を思はせ、錦海八景の内「粟嶋の秋月」として知られている。シイやコガの古木がうっそうと茂るこの社叢の植物分布は、この地方でも珍しく多種にわたっており、昭和五十三年米子市の名勝に、又昭和五十六年、県の天然記念物にそれぞれ指定されている。

境内を右へ廻った所に「お岩さん」とよばれる古代神まつりの場があり、西側の山麓には、その昔、人魚の肉を食べて八百歳まで長生きをしたという「八百比丘尼」の伝説の洞窟「静の岩屋」がある。

伯耆国風土記逸文 粟嶋

伯耆国の風土記に曰はく、相見の郡、郡家の西北に餘戸の里あり、粟嶋有り、少日子命、粟を蒔きたまひしに、莠實りて離々りき、即ち粟に載りて常世の国に弾かれ渡りましき、故、粟嶋と云ふ。(釈日本紀 巻七)

創建時期は不詳。

火災により古記録は焼失してしまっています。

 

当社の鎮座する明神山は、かつては中海に浮かぶ孤島で、粟嶋と呼ばれていました。

『伯耆国風土記逸文』によれば、少彦名命が粟を蒔き、実った粟の穂にはじかれて常世国に渡っていった場所がこの粟嶋とされています。

山全体が御神体とされ、かつては社殿も麓にあったようです。

 

戦国時代には、尼子氏の伯耆侵攻の際に焼失し、のち尼子氏によって再建。

元禄2年(1689)に火災で焼失、翌3年(1690)再建。

この際、社殿を山麓から山頂に移したといわれます。

 

江戸時代中期、宝暦(1751~64)頃に神田開発のため干拓され、周囲と地続きになりました。

文政年間(1818~31)、米子の藩医であった福島林仙が「米子八景」を選定した際、粟島は「粟嶋秋月」としてその一つとされました。米子荒尾氏分家の荒尾成韶が福島林仙の漢詩を「うき雲をはらひし風をあは島のしまにのこして月ぞすみける」と和歌にしています。

 

明治になり粟嶋大明神から粟嶋神社へ改称。

 

上掲の境内案内板には「一の鳥居のあるあたりが、昔の海岸線」との記述があります。

この「一の鳥居」がどこかというと、神社を背にして参道を逆にたどり、て次の交差点のあたり。

 

 

道路脇に鳥居の根本だけが残っています。ここから今の参道入口の鳥居前までは海で、参拝時は舟で渡っていたんですね。

御朱印

御朱印はあります。

石段下左手の社務所で拝受可。

アクセス

米子駅から車で15分程度。

県道47号を北西にしばらく走ると、左手に小さな山が見えてきます。

それが神社の鎮座する明神山。

徒歩なら境線河崎口駅から25分ほど。

神社概要

社名粟嶋神社(あわしまじんじゃ)
通称
旧称粟嶋大明神
住所鳥取県米子市彦名町1405
祭神少彦名命
合祀

大己貴命

神功皇后

社格等旧郷社
札所等
御朱印あり
御朱印帳
駐車場あり
公式Webサイト
備考

参考文献

『日本歴史地名大系 32 鳥取県の地名』 平凡社

 

『鳥取県神社誌』 鳥取県神職会


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