御嶽神社。
湯沢市にある御嶽山山頂に鎮座。
式内社 鹽湯彦神社の古社地説のある場所に建つ神社。
境内
テレビ・FMラジオ中継局施設
施設の前を過ぎて奥まで行くと参道があります
狛犬
灯籠
境内からは町が見下ろせます
ちょっとアンテナが邪魔。
社殿
拝殿
扁額
読めませんが、おそらく「御嶽山」…?
本殿
境内社等
祠群
一番左の碑は「鳥海山 月山 湯殿山 羽黒山 塔」とあります
石仏と碑
参道の祠
社務所か倉庫か…
由緒
御嶽神社
保延元年(1135)、藤原清衡が古御嶽山(湯沢スキー場山頂)に建てたと称されている。御嶽神社記によると、奥州、羽州の地頭となった三館権太郎清衡(藤原清衡)が、保延元年に寄付すると記載された厨子は現在もある。その年の5月に壮麗な社殿を建て、疫病払いの大祭を行うともある。また、当時、奥州(岩手)の人たちも競い合ってこの社を参拝したので、沢の中には「南部沢」というところもある。この神社の建立は、清衡が平泉に中尊寺を建ててから11年目にあたる。
現在の御嶽神社は、佐竹南家が国の命令で山城を破壊され、殿様は、すぐ下のお屋敷(現在の市役所付近)に移され住んでいた。このお屋敷にいる殿様が、「お屋敷を守る神、殿様を守る神として、古御嶽山から現在地に移し、祀ったもの」と、明治12年に県庁で出した『神社調べ』に記載されているが、その年月は分かっていない。
佐竹南家では、祈願所真言宗広大寺がこれを祀っていた。祭日は、旧暦の正月、5月、9月の各8日、9日とし、これが御嶽の三祭であり、特に、5月の大祭には、一山にかがり火を焚き、悪病退散の祭りとして、老若男女が群れをなして参拝した。「御嶽山に三度登らなければ湯沢人にはなれない」と昔から言われていることから、ときおりウォーキングを楽しみながら、県南の絶景を眺めている人もいる。
創建は保延元年(1135)。
当初の鎮座地は古御嶽山(現社地の南、湯沢スキー場のある山)の山頂でした。
藤原清衡が開いたとされ、彼の寄付した厨子は今も残るといいます。
時期は不明ですが(中世後期?)、佐竹南家の当主が湯沢城の鬼門鎮護の神として現在地に遷座させたとのこと。
明治5年村社(※)列格。
※秋田県神社庁の当社ページ、由緒項には冒頭に「旧社格村社」とありながら、末尾には明治5年郷社とあります。『明治神社誌料』秋田県平鹿郡郷社の項には見えないので、少なくとも明治の間は村社が正しいと思われます。
西南麓に温泉が湧いており、これは御嶽の御手洗湯と呼ばれ、また周辺の字名は湯ノ原。
これが湯沢の地名の由来になったという説もあります。
『湯沢市史』では、当地(御嶽山上)が延喜式神名帳にみえる「出羽国平鹿郡 鹽湯彦神社」の本来の鎮座地であるとしています。
理由として、以下が挙げられています。
- 秋田県内の式内社、波宇志別・副川はそれぞれ雄物川と旭川の合流点近い保呂羽山、雄物川と玉川の合流点に位置する神宮寺嶽に位置。これは山麓地帯より平坦部に開拓が進み、雄物川筋道が重要路線になったことを暗示するもので、湯沢御嶽山も雄物川筋に位置していること。
- 塩湯彦神は神名から温泉の神とわかるが、横手御嶽山には温泉がなく、湯沢御嶽山麓には湯の原温泉があること。
- 藤原清衡が平泉式の厨子を寄付した点から、由緒ある神、おそらく奥州塩釜神社の分身塩湯彦神と推定されること。
上記の説に従えば、現在の御嶽神社は、中世に塩湯彦神社が衰退した後に、古御嶽山から遷座されたものと思われます。
御朱印
御朱印の有無は不明。
アクセス
湯沢駅の北、表町四丁目交差点(位置)から国道398号を東へ1.6kmほど行くと、道路の左手(北側)に御嶽神社の案内板が立っています(位置)。
案内板の左から細い道が奥に伸びてますので、そこへ入って行きましょう。道は舗装されてはいますが、かなり急な上に木の枝が散乱していたりしたのでご注意ください。
そのまま山道を1kmほど登るとNHKの施設があり(テレビとFMラジオの中継局だそうです)、駐車スペースもあります。
神社概要
社名 | 御嶽神社(みたけじんじゃ) |
---|---|
通称 | おみたけさん |
旧称 | – |
住所 | 秋田県湯沢市字御嶽山6 |
祭神 | 建速須佐之男大神 宇賀能美多麻命 大年神 若年神 |
社格等 | 式内社 出羽国平鹿郡 鹽湯彦神社(旧地) 旧村社 |
札所等 | – |
御朱印 | 不明 |
御朱印帳 | – |
駐車場 | あり |
公式Webサイト | – |
備考 | – |
参考文献
- 「御嶽神社」, 神社本庁教学研究所研究室編『平成「祭」データ(CD-ROM)』全国神社祭祀祭礼総合調査本庁委員会, 1995
- 湯沢市史編さん会事務局編『湯沢市史』湯沢市教育委員会, 1965