湊神社(湯梨浜町大字橋津)

湊神社。

橋津川河口付近の湯梨浜町橋津に鎮座。

日本三代実録 貞観9年(867)4月8日丁丑条に見える湊神に比定される神社。

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境内

社頭

 

鳥居

 

手水舎

 

随神門

 

石段

 

狛犬

 

注連柱

 

狛犬

社殿

拝殿

 

本殿

境内社等

社殿左手に境内社

 

 

祓戸?

 

中に御神輿があったので神輿庫だと思うのですが…

橋津古墳群

神社裏手の馬ノ山という丘に多数の古墳が分布しています。

 

社頭から少し南に登り口

 

史跡橋津古墳群

羽合平野の北端に標高一〇七メートルの峰をもつ馬ノ山は北に日本海、南に温泉地域の東郷池、西は天神川の貫流する中部田園をへだてて、遠くは伯耆大山の偉容を望む最も景勝の地である。

馬ノ山丘陵には二十四基の古墳が点在しており、これらを総称して橋津古墳群と呼んでいる。別名馬ノ山古墳群とも呼ばれ、五基の前方後円墳、十九基の円墳が確認されている。古墳時代前期(四世紀代)から後期(六・七世紀代)までの古墳と考えられており、古墳文化を考える上で、貴重な古墳群である。この内、一~十二号墳、十四号墳、二十一号墳の十四基が昭和三十二年六月三日に国の史跡に指定された。

中でも、橋津四号墳は、一〇〇メートル(推定)にも及ぶ大型の前方後円墳で、この古墳群の中核をなし、埋葬施設が九基も確認されている。後円部の竪穴式石室からは銅鏡五枚の他、勾玉、管玉、石釧、車輪石、各種鉄製品等が発見された。これらの豊富な副葬品から四号墳は古墳時代前期(四世紀代)の古墳であることが判明している。

 

上っていくと注連柱

 

案内板があったので25号墳だと思うのですが…

これ以外は案内もなくよくわからず。

 

橋津二十五号墳

発見

平成二年二月、伯耆ロマンの里「ハワイ・馬ノ山公園」整備事業にともなって発見された。

規模

墳丘石室の上部は破壊されており、その規模は不明である。古墳時代後期の古墳と考えられる。

埋葬施設

長さ三・九m、幅二・一mの西に開口する横穴式石室が一基あった。玄室の大きさは、奥行一・九m、奥壁の幅一・六mで、羨道の長さ約一mである。多数の須恵器刀子・鉄鏃などの鉄製品と、玉・骨片が出土した。

 

丘の上に忠魂碑?が建っていました

立ち入り禁止っぽくなっており登らなかったので詳細は不明。

この丘も古墳じゃないかと思うのですが案内板などはなし…

 

山中を東に行ったところにハワイ風土記館なる展望台のような建物があり、そちらの方まで古墳は分布しています。参拝時はそんなに広い範囲にあるとは知らず見ていませんが…

丘の北側から車道が通っており、山中に駐車場もいくつかあるようです。

橋津の藩倉

神社の南300m弱に橋津の藩倉という建物があります(位置)。

鳥取藩の9つの灘蔵の中で最大規模の物だったそうで、現在は県指定保護文化財となっています。

 

橋津の藩倉

 

舟?

 

橋津の藩倉

寛永九年(一六三三)国替えにより、池田光仲が岡山から鳥取へ入国し、三二万石鳥取池田家の藩政が始まりました。この辺りは鳥取藩の年貢米を収納する御蔵が設置されていた所です。鳥取藩政資料の中に寛永十二年橋津御蔵の記載があり、藩政の始まりとともに創設されたものでしょう。

現存している御蔵は「古御蔵」「三十間北蔵」「片山蔵」の三棟ですが、文化五年橋津御蔵絵図(一八〇八)には御蔵十四棟と計屋一棟が描かれ、建坪六一二坪を数えます。

橋津御蔵は、鳥取藩の九つの灘蔵の中で最大の規模で、約五万俵の米を収納し、主として大阪へ廻米され、藩財政を大きく支えていました。

古御蔵には、天保十四年(一八四三)建替の棟札があり、全国的にも史料価値の高い建物として注目されています。

橋津の藩倉は、江戸時代の税制・経済・海運史研究に関わる貴重な存在といえます。

 

藩倉右手には稲荷大神が鎮座

 

稲荷神社遷宮竣工記念碑

由来

当神社ハ今ヨリ二百七十年前鳥取池田藩主藩米倉庫建設ノ際食糧ノ神トシテ伏見稲荷大明神ノ分社トシテ勧請シ此ノ地域ニ祀ル

明治十五年

財団法人奨恵社管理

昭和二十年

橋津村管理

昭和五十年十一月

橋津財産区管理委員会ニ依リ新殿ヲ伏見稲荷ヨリ遷宮再建ス

由緒

創建時期は不詳。

往古は「羽合郷湊浦色見ノ山」に鎮座、正応2年(1289)に「宮地」に遷座し(いずれも場所不明)、天明6年(1786)に現在地に遷座したといいます。

 

三代実録 貞観9年(867)4月8日丁丑条に「伯耆国…正六位上湊神…従五位下」とみえる湊神は当社に比定されています。

 

『鳥取県神社誌』には「文久二年三月官社湊大明神と社号勅宣あり」とありますが、『日本歴史地名大系』には「宝暦三年(一七五三)頃の河村郡村々明細帳(近藤家文書)には、橋津村の産土神として湊大明神とみえる」とあるので、実際いつ頃から湊大明神と号したのかは不明。

武将の崇敬が厚く、天文年間(1532~55)には尼子経久が社領百五十石を寄進、天正9年(1581)には吉川元春が五十石を寄進、南条元続・池田光仲も同高を安堵したとされます。

 

明治初年湊神社と改称、同5年郷社列格。

大正3年に岩伏神社、赤池神社を合祀。

御朱印

御朱印の有無は不明。

アクセス

鳥取市、米子方面どちらも山陰自動車道(国道9号)のはわいICで降り海の方へ。

駐車場はありませんが、裏手のハワイ・馬ノ山公園内にいくつか駐車場があるので、そちらを利用するのがいいと思います。

馬ノ山公園に上るなら、海沿いの交差点(位置)から入るとわかりやすいです。

橋津の藩倉南側(位置)にも駐車場あり。

神社概要

社名湊神社(みなとじんじゃ)
通称
旧称湊大明神
住所鳥取県東伯郡湯梨浜町大字橋津287
祭神

速秋津彦命

速秋津姫命

菅原道真

素戔嗚命

倉稲魂命

社格等

日本三代実録 貞観九年四月八日丁丑 湊神 従五位下

旧郷社

札所等
御朱印不明
御朱印帳
駐車場なし
公式Webサイト
備考

参考文献

  • 「湊神社」, 『日本歴史地名大系』(データベース「JapanKnowledge」)
  • 「湊神社」, 神社本庁教学研究所研究室編『平成「祭」データ(CD-ROM)』全国神社祭祀祭礼総合調査本庁委員会, 1995
  • 鳥取県神社誌編纂委員会編『新修鳥取県神社誌 因伯のみやしろ』鳥取県神社庁, 2012
  • 鳥取県神職会編『鳥取県神社誌』鳥取県神職会, 1935(国会図書館デジタルコレクション 170-171コマ
  • 明治神社誌料編纂所編『府県郷社明治神社誌料 中巻』明治神社誌料編纂所, 1912(国会図書館デジタルコレクション 865-866コマ