石坐神社。
大津市西の庄に鎮座。
式内社 石坐神社に比定される神社。
境内
社頭
鳥居
扁額
社号標
もう一つ社号標
手水舎
狛犬
裏参道?側の社号標
社殿
拝殿
拝所
本殿
本殿前の狛犬
境内社等
彦坐王社
覆屋の札には石神社とあります。
鳥居
扁額には「倉稲稲荷大明神」とあります。
弁財天社
稲荷社
幣が3本建てられた祠(?)
左から物部社、祓戸社、柳崎社とありました。
祠の後ろに石
上記3社を祀る磐座なのでしょうか。
御神木 エノキ
御霊殿山遙拝所
石坐の大神は、海神豊玉彦命と申し上げます。
淡水湖である琵琶湖の神様は、淡海の大神と申し上げ御子に坐します。
神代の昔、大神様は御霊殿山にお鎮まりになられ、天智天皇御代八年旧九月九日御鎮祭。
神奈備山は奥宮の禁足地にあります。
遙かに拝み奉り神恩感謝の祈りを捧げましょう。
神輿庫?
この他、社殿正面の建物(社務所と連なっている)が西殿で、天上将来宮、淡海龍王宮、福徳社、氏神社の合殿となっているようです。全然気づかなかった…
由緒
当社は、天智天皇八年旧九月九日神奈備山(御霊殿山)の磐座に湖中より龍灯が飛来し、御神託のまにまに勅使を遣わし、大石の上に小祠を建てて祭祀なされた。
壬申の乱ののち、持統天皇朱鳥元年五月一日粟津の王林の地・石坐野(膳所石神町)に八大龍王宮(豊玉比古命・彦坐王)と正霊天王宮(天智天皇・大友皇子・伊賀宅子媛)との両殿が創建された。
光仁天皇宝亀四年(七七三)旧十二月三日正一位勲一等を授けられ、鎮護国家の神社なりと勅語があり、翌五年十二月三日勅会の祭礼が行われた。
十二月三日は天智天皇崩御の日に当るからである。
承和二年(八三五)旧十二月三日宣旨あり
近江国滋賀郡石坐の庄 石坐神宮社
勅願の儀 遂に修造の功為り天下泰平を祈り奉るべし
按察使 藤原良門
この時、累代社務を継承奉仕せし、現法伝寺の大友氏の公※上人御房は正霊天王宮の別当職に任ぜられた。
建久三年(一一九二)右大将源頼朝上洛の途次当社に御寄進があった。
建保二年(一二一四)旧五月一日神殿再建の折、左近衛中将藤原資平を勅使として差遣された。再建は粟津原の合戦により社殿焼失したことによる。
文永三年(一二六六)旧八月二十九日神主、佐々木八郎左衛門尉守安は社殿を湖辺に遷し、更に社殿を造営した。今の社殿である。
守安は、大友与多王の遠孫であるが佐々木氏を称した。
その棟札は 捌宮 棟上 神主 佐々木守安
大工 藤井為弘・藤井宗貞
当時は捌宮と称し粟津八宮とも言った。八大龍王神のことである。
この時も粟津の合戦により社殿が焼失したのであり、当時の相模川流域の和田、膳所両社にかけても戦火が及んだようである。
弘安年中(一二七八)皇子御病気で医療効なく当社に祈願され南郷の青山藤右エ門が高木の崎(石坐神社前)で綱を曳き一尺三寸余の大鯉を獲たので之を献じたところ御平穏なされたので勅使を派遣し奉幣なされた。
応仁の乱(一四六七)に当社も歴代所伝の古文書神宝など多く散失した。
天文三年(一五三四)法伝寺住僧から承和以来一乗院滋賀寺(法伝寺)が兼掌していた社務を小西氏・江坂氏に譲られた。
慶長五年(一六〇〇)関ヶ原の役に大阪軍が来て神域に陣し敗軍に及んで火を放つ時に八大龍王宮は災を免れたるも正霊天王宮並びに拝殿と社務所他二棟など神門・廻廊ともに上古より伝わる古記録・宝物消失する。
当社は、その後明治維新に至るまで八大龍王社と称し、江戸時代雨乞の御神徳により膳所城主の篤い崇敬を受ける。
大正九年六月十日時の記念日が定められ膳所町・滋賀郡の御協賛のもと漏刻祭が盛大に執り行われた。
正霊天王宮は粟津西の庄鎮守の産土神として、八大龍王宮は福寿厄除神として広く崇敬されている。
当社家には、この高札場を勅使台と称すと言い伝えられている。
御祭神
八大龍王宮 豊玉比古神(海津見神) 彦坐王命
正霊天王宮 天智天皇 大友皇子(弘文天皇) 伊賀宅子媛命
御創立
天智天皇八年(西暦六六九年)旧九月九日御霊殿山(御龍燈山)の神奈備の天津磐座に豊玉比古神御出現
朱鳥元年(西暦六八六年)旧五月一日石坐野の王林の広庭に両殿を御創建
光仁天皇宝亀四年旧十二月三日正一位勲一等の神階を贈り給い鎮護国家之神也と御勅宣あり同五年十二月三日勅祭を行わせ給ふ
鎌倉時代文永三年(西暦一二六六年)旧八月廿九日に現在地に両殿御遷座
慶長五年関が原の役で大阪方の大軍来りて神域に陣し敗軍に及んで社頭に火を放つ時に八大龍王宮は災いを免れたるも上古より伝われる古記録宝物焼失す
江戸時代・膳所城主の篤い崇敬を受ける
明治時代高木神社と改称・大正六年旧称石坐神社に復す
主な祭礼
歳旦祭 一月元旦 節分祭 二月三日 祈年祭 三月春分日
大祭 五月三日 漏刻祭 六月十日 夏越の大祓 六月下旬
千燈祭 九月秋分日 神奈備磐座祭 旧九月九日 新嘗祭 十一月二十三日
御火焚き祭 十二月上旬 神奈備山登拝 十二月二十九日
月始祭(おついたち参り) 毎月一日
神奈備磐座月次祭 毎月旧九日
厄除け交通安全諸願成就月次祭 毎月十五日
御神徳
神を敬い祖先を崇め神習う道を教え導き給い救世済民の恩頼を垂れ給ふ
厄払い祈祷(大厄三十三歳・四十二歳)厄除け守護矢授与
災難除祈祷 災難よけ特別守授与 誕生祭祈祷
交通安全祈願・社運隆昌・商売繁盛・家内安全・病魔退散等諸願成就祈願
地鎮祭・清祓い・宅神祭など執り行います
石坐神社は、天智天皇が琵琶湖の神様を祭祀したことに始まる。その創始は、天智天皇御代八年旧九月九日神奈備山(御霊殿山)の磐座に湖中より龍灯が飛来し、御神託のまにまに小祠を建てて祭祀なされた。これを御霊殿神社と申し上げる。
持統天皇御代・朱鳥元年旧五月一日粟津の王林の地・石坐野に、八大龍王宮と正霊天王宮の両殿が創建された。
八大龍王神とは、琵琶湖にゆかりの神様で龍神と伝えられわが国では、水徳の恵みの神で古来より雨乞いの神・福寿の神としての信仰がある。
主祭神豊玉比古命は、人皇第一代神武天皇の御祖父神にあたり、彦坐王は、彦坐命と申し上げ、人皇第九代開化天皇の第三皇子・近江国造治田連の祖霊神であり、近江開拓の祖神に坐しまして八大龍王宮の御祭神である。
近江大津宮を開かせ給ひし天智天皇は、大友皇子(弘文天皇)・伊賀宅子媛(大友皇子御生母)と共に正霊天王宮の御祭神である。
御祭神
八大龍王宮
豊玉比古命 神武天皇御祖父神
彦坐王 開化天皇第三皇子
正霊天王宮
天智天皇 天命開別天皇
大友皇子 弘文天皇
伊賀宅子媛 大友皇子御生母
奥宮 御霊殿神社
石坐大神 八大龍王神
八大龍王宮は、粟津八宮と称され、八柱の高貴な神達が御祭神である。
奥宮の御霊殿神社は、今から一三四二年前(平成二十四年より)湖中より龍燈飛来の奇瑞により天智天皇は、勅旨をして御霊殿山の磐座に小祠を建て石坐大神を御鎮祭なされた。その後、石坐野に持統天皇・朱鳥元年旧五月一日・正霊天王宮・八大龍王宮の両殿が創建された。今から一三二五年前、これが石坐神社の創始である。
当宮は、神奈備・御霊殿山(御龍燈が御霊殿と訛る)の八大龍王が、移座なされ鎮まり給ふ神社であり、石坐大神は産大神・氏神であると共に、祝いの神・福寿厄除・お祓いの神としての御神徳による崇敬神社である。
八大龍王神は、八柱の龍神で主祭神・石坐大神は、海神豊玉比古神と申し上げ、他の高貴な神たちは、秘説七座にして御神名は、洩れ伝えられていない。
太古・地球は、海水におおわれていた。その後、幾多の地殻変動により陸地が出現し、現在のような地球模様になったのである。
琵琶湖は、日本海の入り江であって、今津から若狭にかけて海道が開かれていたが、その海道がふさがれて淡水湖が誕生した。これが、淡海・琵琶湖である。
皆、イザナギの神・イザナミの神のご神業になることであり、伊邪奈岐大神は、郡品の祖と申し上げるように萬物をはじめ諸神の祖にまします。
大海原は、天照す太陽光により熱せられて水蒸気となり、天空に上がり雲海と化して、四季折々、降雨・降雪により山嶽・樹林を潤し、伏流水として水脈を流れ、河川より河口へと・再び大海に注がれる。
そうした大自然の中で、人類の生活に欠くことなき日常生活の場での清き水は、湖・河川・井戸から、水道水として供給され、広範囲にわたり多大な恩恵を蒙ることは、言葉では言い尽くせない感謝の事象である。
宇内の水徳を司り給ふ八大龍王とは、神社系統にありては、海の神・山の神・湖の神の高貴な神達であるが、その御神名については、現世に伝えられていない。ただ仏教系統を始め他宗教により、その片鱗が伝えられている。
インドのヒンズー教の八大龍王は、慈雨の神として信仰され、仏教の法華経典中の八大龍王は、難陀・跋難陀・娑伽羅・和修吉・徳叉迦・阿那婆達多・摩那斯・優鉢羅と八大龍王を表現している。
淡海湖神の地上応現の聖地である御霊殿山にお鎮まりになる八大龍王神は、石坐神社に移座して鎮座まします。
信仰とは、現世の所謂・学問の世界における俗知の学問に非ず・霊知を学ぶ秘奥の学問であり、人間は、現世に生を享け、かむながら人倫の道を神習う浄き明き直き正しき真の道を実践し、敬神崇祖の道を行じて人寿尽きて、天の真澄に召し返す定めの時が来たりて幽世に行きなむ時まで、天に徳を積むことが肝要である。
神仏にざんげと感謝の祈りを捧げ、福寿厄除・おはらいの祈願をこめ八大龍王と称え奉る淡海の石坐の大神に清純なる祈りを捧げ意義ある信仰のよりどころと称しましょう。
神通とは、信と不信にあり、これは、信仰の格言であり「心ここに有らざれば、見えとも見えず、聞けども聞こえず、食らえどもその味わいを知らず」との自覚が大切である。
八幡託宣中、「世は変れども神は変らず」「神は斎くまにまに栄ゆるものぞ」との神託に感銘を深くする。
かむながら神の子である人間は、毎日神仏に合掌し、家庭の祭りを行う神棚は、家族の心のよりどころとして奉斎致しましょう。
びわ湖の神は、石坐神社に鎮まる淡海の石坐の大神に坐します。天上将来の宮である。
創建時期は不詳。
社伝によれば、瀬田に設けられた近江国府の初代国造・治田連がその四代前の祖・彦坐王を茶臼山に葬り、その背後の御霊殿山を神体山として祀ったのが始まり。
天智天皇8年(669)に旱魃があり、毎夜湖水から御霊殿山に竜燈が飛来。派遣された勅使の前で竜燈は小童に変じ「われは海津見神の幸魂である。旱害を除いてやろう」と託宣。天皇は勅旨をして御霊殿山磐座に小祠を建てたとされます(幸魂は彦坐王の霊ともいわれる)。
壬申の乱後、一乗院滋賀寺以外での近江朝の神霊「天智天皇、大友皇子・皇子の母宅子媛」を祭祀することは禁じられました。そこで滋賀寺の尊良法師は朱鳥元年(686)、王林(現在の錦駅付近、かつては石坐野、石神町と呼ばれた)に神殿を建てて御霊殿山の霊祠を遷すと共に、相殿を造って近江朝の三神霊を密かに奉斎。この時から八大龍王宮、石坐神社と称されたとも。
宝亀4年(773)、正一位勲一等を授けられ「鎮護国家の神社なり」と勅語を賜り、近江朝の三神霊が公に石坐神社の御祭神として認められたとされます。
延喜式神名帳にみえる「近江国滋賀郡 石坐神社」は当社に比定されています。
文永3年(1266)、現在地へ遷座。
当時は当時は捌宮、粟津八宮とも称しました(捌=八、八大龍王神を指すらしい)。
慶長5年(1600)、関ヶ原の戦いの際に大阪方が神域に陣し、敗軍に及んで火を放ったため、正霊天王宮など建物や古記録宝物が焼失。
明治に入り高木神社と改称(元々、高木宮とも称されていたそう)。境内に高さ20丈程度の楠か榎の老木があったことによる名前のようです(現存する御神木のエノキとは別?)。
大正6年、石坐神社に復称。
上記由緒の通り当社は八大龍王宮と正霊天王宮の合殿で、祭神もその2社の祭神。
八大龍王宮には豊玉比古神(海津見神)と彦坐王命、正霊天王宮には天智天皇・大友皇子(弘文天皇)・伊賀宅子媛命が祀られています(『平成祭データ』は正霊天王宮祭神+彦坐王命を主神、豊玉比古命と海津見神を合祀神としている)。
当社南方に国指定史跡の茶臼山古墳(位置)・小茶臼山古墳(位置)があり、被葬者を彦坐王や大友皇子一族とする説があります(4世紀末~5世紀初頭の築造とみられるため、大友皇子一族とするのは無理がある。ただ茶臼山古墳後円部頂上には、大友皇子とその侍臣および大友与多王(大友皇子の子)を葬ったという「葬り塚」がある)。
『日本の神々』は「当社は原始的な磐座祭祀から出発したが、やがてはこの磐座がもっぱら雨乞信仰の対象となり、神仏習合の過程で八大龍王の御神体とされるようになったのであろう」、『式内社調査報告』は「本来は水神または農耕神として地域社会の古代生活の中に生れたこの古社に、大津宮関係の諸神が何等かの事情で合祀されたのではないか」とします。
旧地とされる御霊殿山ですが、『式内社調査報告』は「茶臼山古墳を左手にみながら山手にすすむと御用池と呼ばれる用水池があり、その傍らをさらに山手へ相模川沿いにすすむと不動堂がある。御霊殿山はその後方にきわだった三角錐の山頂をみせてそびえている。御霊殿山の山頂には巨岩(磐座)があり、社伝ではこの巨岩を八大龍王とし、祈雨の水神としての民族信仰があった(後略)」とし、地図上で山中(この辺り)に丸を付けています(そこが御霊殿山だとかの説明は地図上にも文中にも一切ない)。
不動堂は相模川上流の山中(この辺り)にある鳴滝不動尊だと思うのですが、そのすぐそばに八大龍王社(と思われる社)があります。その左手奥がちょうど上記の丸の位置。
この御霊殿山らしき山には道がありません。境内遙拝所の案内に禁足地とあるので当然といえば当然。不動尊や八大龍王社のそばにも巨大な岩山があり、その周りに祠や碑が建てられています。
鳴滝不動尊から南の方へ続く山道があり、そこをしばらく行くと山に面した御霊殿池という池に出ます。元々鳴滝不動尊はこの池の堰堤に祀られていたそう。
御朱印
御朱印はあります。
社務所で拝受可。
アクセス
県道18号の由美浜交差点(位置、バローの所)を南に入り、次の交差点を右斜め前方向へ(ここから旧東海道です)。その先100mほどで神社。
駐車場は境内北側の路肩(スペースは4台分くらい)。玉垣沿いに道路と並行に停めます。
神社概要
社名 | 石坐神社(いわいじんじゃ) |
---|---|
通称 | – |
旧称 | 八大龍王社 高木神社 |
住所 | 滋賀県大津市西の庄15-16 |
祭神(八大龍王宮) | 豊玉比古神(海津見神) 彦坐王命 |
祭神(正霊天王宮) | 天智天皇(天命開別尊) 大友皇子(弘文天皇) 伊賀宅子媛命 |
社格等 | 式内社 近江国滋賀郡 石坐神社 旧村社 |
札所等 | – |
御朱印 | あり |
御朱印帳 | – |
駐車場 | あり |
公式Webサイト | http://iwaijinzya.org/ |
備考 | 当初の鎮座地は御霊殿山 朱鳥元年(686)王林(現在の錦駅付近)に遷座(1266年まで) |
参考文献
- 「石坐神社」, 『日本歴史地名大系』(データベース「JapanKnowledge」)
- 「石坐神社」, 神社本庁教学研究所研究室編『平成「祭」データ(CD-ROM)』全国神社祭祀祭礼総合調査本庁委員会, 1995
- 式内社研究会編『式内社調査報告 第十二巻 東山道1』皇學館大学出版部, 1981
- 谷川健一編『日本の神々 神社と聖地 第五巻 山城・近江』白水社, 1986