廣田神社。
輪島市小伊勢町丸垣内、鳳至川沿いに鎮座。
式内社 鳳至比古神社の論社。
境内
国道沿いにある新し目の社号標
社頭
社号標
鳥居
手水鉢
社殿
拝殿
本殿
由緒
この神社は、延喜式内社鳳至比古神社ともいわれ、近郷の惣社であったとも伝えられている。
神社には神像四躯と文明九年(1477)作の銅板懸仏一面は輪島市の文化財に指定されている。
神社の神事としては昔は「七草祭」があり、二月七日に七草祭りを行っており、神前に七草をお供えして、三十三鍋を炊いて、氏子一同直会をする。この直会には参拝者全員に七合入りの盛相飯一本宛配分し、七草のお菜も入れて食べさせたという。現在は三月七日に変更し、祭典だけを行っている。
輪島市指定有形文化財 彫刻 昭和49年7月23日指定
広田神社の神像 四躯
一、木造男神坐像
二、木造女神坐像
三、木造男神坐像
四、木造僧形神坐像
輪島市指定有形文化財 工芸 昭和50年12月25日指定
銅板切抜倶利伽羅龍懸仏 一面
鏡板面径 35.0cm
厚(台板共) 1.5cm
龍高 16.0cm
倶利伽羅龍懸仏の遺品は少なく、本県では鹿島町の円光寺に遺存する鎌倉時代の一例にすぎない。しかも本懸仏には紀年銘もありきわめて重要である。
台面裏面 「山王権現、御宝前、文明九年□□七月□□」
創建時期は不詳。
明治の調査書によれば、安元治承の頃(1175~81)に伊勢国から東西某氏が当地にやって来て開墾し、内宮外宮を勧請して字名を御伊勢とするも、その後本国に恐れ多いとして小伊勢に改称したとされ、勧請された内宮外宮=当社と見る説もあります。
近郷の人々は伊勢参宮に代えて参拝したとも。
かつては一町(109m)余北、日隅という場所に鎮座。
天文年間(1532~55)に鳳至川の水害により社地社殿が流失したため現在地に遷ったと伝わります。
明治32年の県道改修に際し、日隅の元宮跡とされる場所を土取場として掘ったところ、木造の神像が出土した、と明治の調査書にあります。この神像が市指定文化財の神像四躯ではないかと思いますが、不詳。
当社を延喜式神名帳にみえる「能登国鳳至郡 鳳至比古神社」に充てる説があります。
『能登志徴』は、社地から古代の陶器が出たこと、変わった神事があること、500年ばかり前の棟札が伝来することなどから、当社を鳳至比古神社であるとします。
現在も、寛正2年(1461)2月5日銘のある「鳳至比古住吉大明神」棟札は残っているようです。ただしこの棟札について、『特選神名牒』は「疑はし」、『日本歴史地名大系』は「検討を要する」とします。
御朱印
御朱印の有無は不明。
アクセス
輪島市中心部の稲荷町交差点(位置)から国道249号を1.8kmくらい南下すると右手に社号標があります(位置)。その奥に境内。
駐車場はありません。
神社概要
社名 | 廣田神社(ひろたじんじゃ) |
---|---|
通称 | – |
旧称 | 平田明神 平田大明神 廣田大明神 |
住所 | 石川県輪島市小伊勢町丸垣内64 |
祭神 | 天照大神 表筒男神 中筒男神 底筒男神 高皇産霊尊 神功皇后 大山咋神 建御名方神 |
社格等 | 式内社 能登国鳳至郡 鳳至比古神社 旧村社 |
札所等 | – |
御朱印 | 不明 |
御朱印帳 | – |
駐車場 | なし |
公式Webサイト | – |
備考 | 旧地は一町(109m)あまり北の日隅 |
参考文献
- 「小伊勢村」, 『日本歴史地名大系』(データベース「JapanKnowledge」)
- 「廣田神社」, 神社本庁教学研究所研究室編『平成「祭」データ(CD-ROM)』全国神社祭祀祭礼総合調査本庁委員会, 1995
- 式内社研究会編『式内社調査報告 第十六巻 北陸道2』皇學館大学出版部, 1985