白山神社〔平泉寺白山神社〕(勝山市平泉寺町平泉寺)

平泉寺白山神社。

勝山市平泉寺町平泉寺に鎮座。

明治までは霊応山平泉寺という天台宗の寺院で、また式内社 坂門一事神社の論社とされる神社。

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境内

精進坂

参道(旧参道)は1km以上西から続いています。

 

社号標

 

参道標

 

一の鳥居

 

手水舎

 

参道

 

二の鳥居

 

扁額

 

拝殿手前

苔の宮と呼ばれるだけあって、参道周囲は一面苔に覆われています。

社殿

拝殿

 

扁額

 

拝殿 江戸末期造営 元の大拝殿は正面四十五間左右の礎石がそれを示す

 

本殿前の狛犬

 

本殿

 

本殿扁額

 

本殿縁側の狛犬

 

御本社 寛政七年(一七九五)の造営

御祭神 伊弉冊尊。現社殿は越前藩主松代あら重富公による再建で総欅の入母屋造榑葺。昇り竜・降り竜の丸彫・壁面の浮彫などの彫刻も秀逸で、奥越には珍しい華麗な建築である。

御本社を中心に右に別山社、左に越南知社を配するのは、白山山頂の三山のそれぞれの神を祀っているからであり、このように白山三社の神々を勧進することは当社創建以来の姿と思われる。今は失われているが、中世から近世には、さらに金釼社と加宝社が加えられ、五社が整然と立ち並ぶさまは壮観であったと思われる。

境内社等

本殿周辺

本殿左側に越南知(おおなむち)社

祭神は大己貴尊。

 

本殿右側に別山社

祭神は天忍穂耳尊。

 

左右二社の鳥居

苔の保護のためか二社の鳥居前にはロープが張られており、手前の石段は通れないので上手く撮れませんでした。

 

拝殿から少し右手に行ったところに開山社

祭神は開祖泰澄大師。

 

二の鳥居~拝殿間の参道左手に6社が並んでいます。

 

二の鳥居を潜って左手に池尾明神

 

貴船神社

参拝時にはありませんでしたが、横に貴船神社の札が建っている写真がネットで見られます。

 

今宮神社

 

今宮神社

御祭神 鸕鷀草葺不合尊と申して神武天皇の御父神に当り、古より福徳を授け給うところから施福の神として崇拝されております。

由緒 当社は古来平泉寺四十八社の一つとして字今宮の地に存りましたが、天正二年の兵火で消失しました。同十一年に再興後は村民氏神としてお祀りしていますが、明治四十年当境内に移転して現在に至っております。

 

鎮守宮

 

由緒

当鎮守宮は明治初年神仏分離の政令発布までは平泉寺四十八社の一社で字中谷二十二番地にあった御宮である 天正二年四月の一向一揆のため灰燼に帰したが顕海僧正によって再建された 平泉寺再興開山明治四十年神社統一の際今の地に合併移転された 御奉神は大地主命と申し土地を支配し給ふ神様である 平泉寺史要並に白山神社の古図其の他によっても明らかである

 

境内社

社名掲示ありませんでしたが、稲荷社と紹介しているサイトもあります。

 

境内社

一番拝殿寄りにあります。社名不詳。

本殿奥

本殿右手から奥へ続く道があります。越前禅定道へと続く道です。

 

鳥居

 

参道

 

納経堂

 

納経所

平安の頃より六十六部といって滅罪の経典である法華経を写経して、その一部ずつを日本六十六ヶ所の神社に納めながら諸国を巡礼したが、とくに江戸時代には盛んに行われた。越前での納経所は当社だけである。境内にある結神社の傍らには「天下泰平 日月晴明」「大乗妙典六十六部廻國供養塔」と刻した石碑が今も立っている。

 

楠木正成公墓塔

 

三之宮

祭神は栲幡千々姫尊。

 

三之宮/楠木正成公墓塔案内

三之宮 明治二十二年の改築

安産の守護神として信仰が厚く、そのために当社は昔から安産の御守りと岩田帯を頒布している。

 

楠木正成公墓塔 延元年間(約六百五十年前)の建立

当社は後醍醐天皇の建武の中興に際して、北条氏の一族を大野郡牛ケ原に攻め滅ぼすなど、官軍との関係が密接であった。古い縁起によると楠木正成公の甥恵秀律師は平泉寺衆徒の一人で、延元元年(一三三六)当社三之宮に参籠していると夢に大楠公が騎馬姿で現れ、不思議に思っていたが、やがて大楠公湊川戦死を聞き知るにおよんでそれがまさに夢見の日とわかり、その場所に五重の石塔を立てて菩提を弔った、と伝える。周囲の石柵と参道は寛文八年(一六六八)越前藩主松平光通公の奉納によるものである。

 

白山禅定道平泉寺登拝口

ここから白山山頂まで30km以上。ただし一部通行不可区間があります(迂回路はあるらしい)。

南谷発掘地付近

境内南側に、南谷発掘地があります。

ここはかつて南谷三千六百坊といわれた坊院の跡。

 

復元された薬医門

 

土塀跡

 

国史跡 白山平泉寺旧境内

【史跡の概要】

白山平泉寺は、平安時代後期から室町時代の越前において、白山信仰の拠点として強大な勢力を有した山岳寺院跡です。一般的には「平泉寺」の名称で知られています。

平泉寺は養老元年(717)に泰澄大師によって開かれたとされています。平安時代には比叡山延暦寺の末寺となり、室町時代には寺領九万石・九万貫・四十八社・三十六堂・六千坊・僧兵八千と称される隆盛を誇ったと伝えられています。しかし、天正2年(1574)、一向一揆との戦いに敗れ、全山焼失しました。その後、境内中心部のみが再興されましたが、明治の神仏分離令によって平泉寺は廃止され、白山神社となりました。

平成元年度には、旧境内の範囲を確認する発掘調査が開始されました。その結果、かつての平泉寺境内が、現在の白山神社境内の十倍以上もの広さであったことがわかりました。

平成9年3月10日には、史跡の範囲が旧境内のほぼ全域(約200ヘクタール)に拡大され、名称も「白山平泉寺城跡」から「白山平泉寺旧境内」に変更されました。

 

【発掘調査・整備の概要】

平泉寺が隆盛を誇っていた頃、この南谷一帯には三千六百の僧坊(僧侶の住居)が存在していたと伝えられています。これら屋敷跡は、現在の田畑や山林の区画に残っています。

平成2年度と3年度に、道を中心に発掘調査を行った結果、石畳道や排水路、僧坊の出入り口、石橋、石垣などが出土しました。

その後、一部に崩落する危険性が生じたため、平成8年度と11年度に国の補助を得て石畳道と石垣等の修復を行いました。

下の図は、修復を行った範囲がわかるように色分けしたものです。

 

中世坊院跡の発掘調査(平成3・18・21~23年度調査地)

この坊院(僧侶の住居)跡は、周囲を石垣に囲まれ、その上には土塀が建っていたと思われます。東側の石垣の南半分は、16世紀ごろに2度積み直されています。坊院の南側に接しては石畳道が通り、坊院の南東寄りに出入口があります。坊院の面積は約1,500㎡です。

坊院出入口のすぐ奥は、川原石を敷きつめた石敷きとなっており、さらに坊院内を北側へ延びていく石畳道もみつかりました。坊院内の主要な建物につながる通路と考えられます。このような坊院出入口から坊院内へ延びていく石畳道は、平泉寺で発掘調査した他の坊院跡でも見つかっています。また、この石畳道の西側には、坊院内を区切る土塀跡もみつかりました。

坊院跡東側には、水路や井戸、土坑などの遺構も見つかっています。時期は14~16世紀で、16世紀のものが中心です。方向が違うものもあり、異なる時期につくられていったと思われます。坊院跡の中央部から西側は、江戸時代以降にけずりとられている場所が多く、どのような建物などが建っていたのかはよくわかりませんでした。

坊院の北側石垣を調査中に、大変めずらしい中国元時代の青白磁観音像が出土しました。

 

南谷坊院跡/発掘調査地

白山平泉寺は、今から四百数十年前の天正2年(1574)に、一向一揆との抗争に敗れて全山焼失したことが、残された記録から判明しています。

焼亡以前の様子は、白山神社に残る絵図(右)からある程度わかります。ここ白山神社南側に広がる南谷一帯は、道路が縦横に張り巡らされ、三千六百坊といわれる多くの坊院(僧侶の住居)が存在していたようです。

勝山市が平成元年度から実施した遺跡の範囲確認調査では、ほぼ絵図に描かれたとおりに石畳道が発見され、屋敷跡と推定される多くの平坦地や出入口、門跡、石橋、排水路、石垣等が発見されました。

このあたり一帯の山林や田畑には、絵図に描かれたような中世の都市がそのまま埋もれていると言えます。

 

近くに神社らしき建物がありましたが、詳細不明

 

鳥居

どうも後ろの大きな岩が「謀反岩」と呼ばれる岩ではないかと思われます(参拝時は案内がなくよくわからなかった)。

パンフレットによれば「16世紀中頃の話。本社の石垣に使われた弟・玉泉坊による3メートルの大石に、兄・宝光院が対抗。この場所の岩を掘り起こそうとしたところで、朝倉義景が争いを収めたとされています」「本社の大石垣を作るため奉納する石の大きさを競った兄弟の僧。義景の命令で岩を運べなかった兄・宝光院は、その後もこの大岩の前で弟・玉泉坊を滅ぼす方法を企んだため、この名前がついたという」とあります。

 

なお、南谷発掘地からさらに南に若宮八幡宮があり、社の横には全山焼失に耐えて残ったという大杉があります(未見)。

参道周辺

八幡神社

 

御手洗池

鳥居脇の案内標に「池中の影向石に白山大神御出現」とあります。2枚目中央の石がそれでしょうか。

 

御手洗池

泰澄大師は養老元年(七一七)白山登拝の途中この林泉を発見され、大師の祈念に応じて泉の中の影向石に白山の大神が出現され、「神明遊止の地なり」とのお告げがあったため、当地に社を建てて白山の神を奉斎されたと伝える。当社発祥の地であり、「平泉寺」や「平清水」(平安時代の当社の呼称の一つ)の名の由来はここにある。神泉は今もって絶える事なく湧き出でている。

池の東(御本社寄り)に聳ゆる三叉杉はこの時大師が植えられたものと伝え、一千二百数十年を経て健在であり、幹は途中から三本に分かれ白山三社をかたどる形となっている。当社の御神木であり注連縄が張られている。

 

池の近くには玉垣で囲われた泉があるのですが特に案内はなく詳細不明

ここから池の水が湧いていると紹介しているサイトもありました。

 

御神木・泰澄大師御手植の杉

 

飼葉料?

 

飼葉料

桃山時代に、今も拝殿の内に掲げられている絵馬から夜中に駿馬が抜け出して村民の田畑の作物を喰い荒し、困った当社は此処を馬の飼葉料としたとの伝説があり、現在も草を刈り残している。

 

結神社

 

大乗妙典六十六部日本廻国供養塔と南无阿彌陀仏碑

 

石碑等解説

①大乗妙典六十六部日本廻国供養塔

廻国聖により全国66の霊場(平泉寺もその1つ)に、大乗妙典(法華経)が1部ずつ奉納された。供養塔はその記念に建てられたが破損したため明治23年(1890)に再建された。

②南无阿彌陀佛

表には南無阿弥陀仏とあり、側面には文政5午年(1822)2月10日と刻まれ、「第一番 仁空義山」の文字も読み取れる。義山は平泉寺の坊院の1つ大聖院などの院主と考えられるが、何の目的で建てられたのかは不明である。

③結神

『越前国名蹟考』の平泉寺村の項に「同年(慶長二)結ノ神ノ叢祠ヲ立」と見えている。同年(1597)に「三之宮御社」などとならんで早くから再建された。弘化4年(1847)の『白山行程記』中の「平泉寺圖」に「結神」が描かれ、その横手から大野に向かう道がつながっている。記紀神話における火の神で「かぐつち」、火産霊(ほむすび)とも表記される。ご神体は2つの隕石と伝えられ、縁結びの神として信仰を集めている。

④常夜灯

嘉永4年(1851)に建てられたもので、梅田治右エ門、柳町助右衛門、原藤蔵の名が刻まれることから施主と考えられる。作人は大野の石屋久右エ門とある。以前は毎夜灯りがともされ、灯の傘に石を投げ上手に乗るとよい嫁がもらえるといわれた。

 

東尋坊跡碑

有名な坂井市の崖の由来となった僧が住んでいた場所。

「東尋坊は力が強く乱暴な僧であったので一山衆徒の恨みをかい三国の絶壁から突き落とされた すると東尋坊の井戸は血の色に染まったという」

精進坂の下にある「と之蔵」の前にあります。と之蔵の裏手には東尋坊屋敷の井戸が残っています。

 

顕海寺

天正2年の全山焼失から9年後、顕海和尚が再興したお寺で、廃仏毀釈の際に唯一残った塔頭だとのこと。

 

もう少し参道を西に行ったところ(白山平泉寺歴史探遊館まほろばの隣)に、明治になって再興されたという平泉寺があります(未見)。

 

顕海寺の南、西念寺の裏手の空き地に置かれている狛犬

由緒

平泉寺白山神社説明文

福井、石川、岐阜、の三県にまたがる白山(標高二七〇二メートル)

古くから信仰の山として、富士山や立山と共に日本の三名山と仰がれました。

そして白山は、福井県が生んだ偉大な宗教家泰澄大師によって開かれ、ここ平泉寺白山神社も、大師によって養老元年(西暦七一七年)に創立されました。

以来、平泉寺は、白山の表参道として、更に中世には、四十八社三十六堂六千坊が建ち並び、多くの僧兵を擁して大いに栄え、この時代には福井県(当時の越前)の宗教、文化、武力、の中心として、強大な勢力を誇っていたと伝えられています。ところが天正二年(一五七四年)に加賀の一向一揆の乱入によって、全山ことごとく焼失してしまいましたが、豊太閤の時に再興され、尚白山を管理していましたが、明治四年(一八七一年)に白山は、加賀に編入され、同時に神佛分離の命令によって寺号を棄てて白山神社となって今日に至っています。しかも今猶大社の面目を残し、全盛時代を物語る参道の石だたみ、本社前の大石垣、大拝殿当時の礎石を始めとして、老木が左右に立ち並んでいます。更に六百年前に建てられた楠木正成公の墓塔や、永平寺奉納の石燈籠など、数多くの史跡に富み、平泉寺城趾として国の文化財に指定をされています。また、この境内には慶長年間に作られたと言われる旧玄成院庭園があり、国の文化財に指定されています。このように境内がそのまま史跡であり、数多くの文化財が保存されている所は他には見あたりません。

 

白山神社 福井県勝山市平泉寺町鎮座

御祭神

本社 伊弉冊尊

別山社 天忍穂耳尊

越南知社 大己貴尊(大国主命)

創建 養老元年(七一七)

由緒

当社は白山の開祖・泰澄大師の創建にかかる。大師は白山登拝の途中林泉(今の御手洗池)を発見され、そこで白山の神の託宣をうけられ、当地が神明遊止の聖地なのを知り、社を建てて白山の神を奉斎されたのに始まる。白山信仰の中心地で、古くは白山平泉寺と呼ばれ、後世一般に平泉寺の名で知られたため寺院であるかのように思われてきたが本来神社である。

平安時代以降白山登拝の拠点である白山三馬場の一つとして隆盛を極めた。鎌倉時代の初め、兄頼朝に追われた源義経が奥州平泉に落ちのびる途中当社に詣でたことが『義経記』に見え、鎌倉末の後醍醐天皇による鎌倉幕府打倒に呼応して当社の僧兵が大野郡牛ケ原の地頭を攻め滅ぼしたことも『太平記』に見え著名なことである。中世の最盛期には社領九万石、四十八社・三十六堂・六千坊とうたわれ、戦国時代には一乗谷の朝倉氏とともに越前における一大勢力であった。平泉寺出身の三光坊は能面師の祖と仰がれている。このような当社であったが、惜しくも天正二年(一五七四)折から係争中の一向一揆のため放火せられ全山一時に灰燼に帰した。その後約十年にして再興せられ、豊臣秀吉をはじめ江戸時代に入ると越前藩主松平家の篤い崇敬をうけ、やがて明治維新に際し政府の神佛分離令により長年の神佛習合の姿を脱し、本来の白山神社に復し今日に至っている。

創建は養老元年(717)。

泰澄大師が白山登拝の途中で林泉を発見、白山の神の託宣を受け当地が神明遊止の地であることを知り、神社を建てて白山の神を奉斎したのが始まりとされます。

この時の林泉が今も境内に残る御手洗池だといいます。

 

明治神社誌料によれば、延喜式神名帳にみえる「越前国大野郡 坂門一事神社」を当社にあてる説があるとのこと。

 

中世期には比叡山延暦寺の末寺「霊応山平泉寺」という寺院であり、白山三馬場の越前口として、社領9万石、48社、36堂、3600坊を擁し隆盛を極めました。その境内規模は現在の10倍にも及ぶ広さだったといいます。

馬場というのは白山登拝の拠点になる場所。馬をつなぎとめておいた場所、あるいは馬がそれ以上進めない神域への入口に由来するともいわれ、遥拝所=里宮でもあったようです。他に加賀馬場(白山寺白山本宮…現・白山比咩神社)、美濃馬場(長瀧寺、長滝白山神社)がありました。

 

しかし天正2年(1574)、一向一揆に攻められ全山焼失。

天正11年(1583)、顕海僧正が再興(ただし境内はもとの10分の1程度。この再興時の境内=現境内か)。

 

江戸時代以前から、前述の加賀・越前・美濃の三馬場は、白山頂上の祭祀権や泰澄の権威をめぐって長らく争いを続けていました。

寛文8年(1668)、江戸幕府は白山麓18村を幕府領とし、山上堂社も幕府造営領所としますが、その後も紛争は続いたため、寛保3年(1743)、平泉寺に山上堂社の支配権を与えています(『日本歴史地名大系』による)。

ただしwikipedia等では寛文8年に平泉寺が頂上本社の祭祀権を獲得、ともあります。

 

神仏分離令を受け、明治3年に寺号を廃止、白山神社となって現在に至ります。

明治5年郷社列格。その後時期不明ですが県社に昇格(『明治神社誌料』の時点では郷社なので、大正に入って以降と思われる)。

 

境内絵図1

 

境内絵図2

これらや公式サイトの境内図でも全ては網羅されておらず、境内にもあまり案内はない上に広いので、下調べと時間がないと全てを回るのは難しいと思います。

御朱印

御朱印はあります。社務所で拝受可。

御朱印帳も2017年に出たようですが、現在も頒布しているかは不明。

アクセス

福井市から国道416号→松岡ICから勝山ICまで中部縦貫自動車道、降りたら右に折れて九頭竜川を渡り、道の駅恐竜渓谷かつやまの交差点で右折、3km弱先の元町交差点で左折、突き当りを右折、2km弱先の猪野交差点を左折、後は県道132号を道なりに行けば駐車場に出ます。

神社概要

社名白山神社〔平泉寺白山神社〕(へいせんじはくさんじんじゃ)
旧称

霊応山平泉寺

中宮平泉寺

住所福井県勝山市平泉寺町平泉寺56河上51
祭神伊弉冊尊
社格等

式内社 越前国大野郡 坂門一事神社

旧県社

御朱印あり
御朱印帳あり
駐車場あり
公式Webサイトhttp://heisenji.jp/

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