粟井神社。
観音寺駅の南東6km弱、観音寺市粟井町に鎮座。
式内名神大社 粟井神社に比定される神社。
境内
社号標
一の鳥居
二の鳥居
二の鳥居脇の狛犬
手水舎
三の鳥居
社号標
鳥居の先、階段上に狛犬
拝殿前の狛犬
社殿
拝殿
本殿
境内社
社殿左手に並ぶ境内社
上記3社の奥に少し大きな境内社
扁額に杉尾宮とあるので、元々この地に鎮座していたという杉尾神社か。日本紀略にみえる「苅田神」に比定する説があります(由緒項参照)。
祠群
境内社には地神社、荒魂神社、粟島神社、稲荷神社、龍王神社、與禮神社、飛羅岐神社、天満宮があるそうですがそれぞれ社殿左の境内社および祠群のいずれかでしょうか。
飛羅岐神社と與禮神社については『生駒記』に以下のような伝承があります。
生駒記
粟井村奥谷ト云フ所ニ飛羅岐神社與禮神社ト申ス二社ノ舊跡アリ是太玉命阿州ノ忌部ヨリ當国ヘ移リ給節國人等迎ニ出デ餉器ヒラキシ所ヲ飛羅岐ト云ヒヌ是ヘ御寄レト願ヒシ所ヲ與禮ト云フ両社共ニ太玉命ヲ祝ヒシ所ノ由農夫古老共申ナリ。
奥谷という所から移されてきたということでしょうか。
神楽殿
絵馬堂
御旅所?
昭和初期までは、神社後方藤目山山頂の藤目城本丸跡が御旅所として利用されていたとのことですが、その後こちらに移ったのでしょうか。
忠魂碑と境内社
参道下にある藤目神社
かつては境内に祀られていた御膳守社がこちらに移ったとのことです。
藤目神社社殿
扁額
狛犬
藤目神社の嚆矢は御膳守神社である。別名齋藤神社とも呼ばれる。
齋藤氏は遠祖を天兒屋根命とし、藤原鎌足を経て藤原利仁の子、叙用が伊勢神宮の齋館頭「齋宮頭」に任じられたことから齋宮頭藤原を略して齋藤氏が始まった。時代がくだり、室町(南北朝)時代に齋藤左衛門尉重久は後醍醐天皇、足利尊氏等に仕えた。
貞和二年(一三四六)齋藤下総守重親は、父重久の足利将軍家への忠節、勲功により知行所として讃州苅田郡を賜り、藤目山(百三十六、五m)に藤目城を築城した。
およそ二百三十年後、安土桃山時代の天正四年(一五七六)から天正六年の間、計四度に渡る土佐、長宗我部の軍勢との戦いに善戦空しく敗れ落城した。そこで、子孫が、この地射場に、下総守国重の霊を藤目大明神、妻鶴千代を鶴千代大明神として合祀し藤目神社が始まった。
現在では、毎年、春と秋に齋藤家の子孫や有縁の人々が、齋藤家先祖、並びに戦により藤目城周辺で亡くなった方々の霊を合わせてお祀りしている。
また、この神社は古から、お膳守様、おぜんまさんとして慕われているが、齋藤家の先祖がすぐ近くの粟井神社の祭神、即ち太玉命に奉る神饌を司る神様と言われることから、御膳守が、今ふうに「おぜんま」と呼ばれたものと思われる。
由緒
粟井神社は延喜式内名神大社で御祭神は智に優れ政に秀でた天太玉命である。
創建年代は詳かではないが続日本紀に「承和九年(八四二)粟井神名神に預かる」と記され平安期初頭既に名神に列するほどの名社故に讃岐最古と推測される。また延喜臨時祭式の名神祭二百八十五座の内に「粟井神社一座讃岐國」とあり粟井神社は当時に讃岐に於て唯一名神祭に預かる社であった。このように讃岐屈指の格式を誇る当社は古くは刈田大明神とも称され旧刈田一郡の総氏神として神威は広大であったが世の移ろいと共に次第に盛時の面影を失い明治十二年(一八七九)縣社に列せられるにとどまった。
古記録によると創建時の社殿は今より五丁程南に在ったが大同元年(八〇六)に焼失寛弘元年(一〇〇四)現在地に遷座したとある。また天正六年(一五七八)にも土州軍による藤目城襲撃の兵火で社殿宝物等を失うが元和六年(一六二〇)讃岐国主生駒正俊によって本殿が再建されたのである。爾来二百八十年歴代丸亀城主や氏子は懸命に社殿の修復維持に努めたが近年その老朽損傷は極限に達した。これを憂えた有志は社殿建設奉賛会を発足させ広く氏子の理解協賛を得て平成の大改築を実現したのである。千木高き新社殿は平成十一年二月着工以来二年有余を要し同十三年五月に竣工したがこの大事業はすべて氏子崇敬者奉賛寄進によるものである。茲に、粟井神社の御神徳と氏子崇敬者の敬神の念を称え記念の碑を建立し永く伝承するものである。
創建年代は不詳。
社伝には以下のようにあります。
「鎮座年月素ヨリ不詳ナリト雖モ忌部氏ノ族天乃日鷲命ヨリ三十一代目武持ノ二男久男ト云人ノ時代本社ヘ奉遷スルコト明ナリ。」(『明治三十二年昇格請願書控』)
「白鳳十二年…阿波國板野郡河田村六衛門なる者神托ありて…豊ヶ岡に御造営の上天太玉命月読命保食命の三神を勧請せり時に米鳥元年…是氏神始也。」(社伝)
忌部氏による創建と伝えられ、忌部氏が阿波あるいは安房から来住・勧請したため「アハ居=あわい」を称したといいます。
上記社伝は阿波からの奉遷説ですが、別に安房からの奉遷説をとる社伝もあったようです(現存せず)。
当初は現社地東南にある岩鍋池の南岸に鎮座していたとのこと。
大同2年(807)に火災により焼失し、当時杉尾神社(現境内末社)が鎮座していた当地に假殿を作り奉遷。寛弘元年(1004)に改築したといいます。
旧地は古宮と呼ばれているそうです。
続日本後紀 承和9年(842)11月乙卯(25日)条に「讃岐国粟井神預之名神」として名神に列せられたことがみえ、三代実録 貞観6年(864)10月15日戊辰条には従五位下を授かったとあります(写本により相違あり、高屋神社の記事参照)。
延喜式神名帳では「讃岐国苅田郡 粟井神社 名神大」。
社伝によれば、その後永徳元年(1381)正三位、文亀元年(1501)従一位を授かったとあります。
天正6年(1578)に長宗我部元親による藤目城襲撃により社殿宝物等を焼失。
再建については、文禄2年(1593)、慶長5年(1600)、元和6年(1620)等諸説あり。
明治12年県社に列格。
最近では、平成13年(2001)に平成の大改築が行われました。
祭神は忌部祖神・天太玉命。
『全讃史』『讃岐國二十四社考』では保食命を祭神として挙げています。
現在、保食命は天照皇大神、月読命とともに配祀されています。
香川県神社誌
延喜神名式に『讃岐国刈田郡粟井神社名神大』。続日本後紀に『承和九年十一月乙卯讃岐国粟井神預之名神』とありて、当国式内二十四社の一にして名神大社なり。而して延喜臨時祭式名神祭二百八十五座の内『粟井神社一座讃岐国』と載せられ、事実名神祭にも預らせ給へり。三代実録に『貞観六年冬十月十五日戊辰授讃岐国正六位上粟井神従五位下』とありて、永徳元年には正三位に昇らせらる。上古讃岐の忌部等阿波国より迎へて奉斎せりと伝へられ、阿波忌部社伝に、天日鷲命三十一代武持の二男久名なるものゝ時当所に奉遷せりと云へり。古くは刈田大明神と奉称し、刈田一郡を以て神供料に充て奉りしを以て郡名を神田郡と云ふと云ひ、後の豊田郡これにして以てその宏大なりしことを察するに足るべく、村名粟井も亦この神の坐すによりて起ると云ふ。尚三豊郡史に本郡に於ける上代古墳は本村を中心として豊田、紀井、辻、萩原其の他各村にありて、当地が夙に開明の域にありしことを立証するに足ると云へり。古くは現今の鎮座地より五六町ばかり南にありしが、火災にかゝりて今の所に遷座せられたりと。
慶長八年二月生駒讃岐守の臣佐藤掃部祭供料として米一石六斗を献納し、元和六年九月国主生駒正俊本殿を再建し西島八兵衛之尤をして代拝せしむ。元和七年八月西島八兵衛常夜灯一対を奉納せり。宝暦五年二月丸亀藩主京極佐渡守高矩、神名扁額一面と樹木及び田一段二畝を奉納、明治四年四月丸亀藩主京極朗徹雪洞一対及び幕を奉納す。明治十二年八月十二日県社に列せられ、同四十年三月二十二日神饌幣帛料供進神社に指定せらる。
日本紀略所載・苅田神
日本紀略に、延喜6年(906)苅田神が従五位を授けられた旨の記述がありますが、この苅田神を元々当地に鎮座していたとされる杉尾神社(現境内社)とする説があります。
当地は古代苅田郡紀伊郷に属し、武内宿禰の後裔を称する苅田氏のいた土地で、苅田神は苅田氏の氏神と見られます。
苅田神の祭神は不明ですが、『式内社調査報告』では苅田氏の祖とされる武内宿禰を挙げています。
『讃岐国官社考証』や『三豊郡史』では、大社である粟井神社が遷ってきた結果、苅田神は名前だけが残り、粟井神社=刈田大明神という認識になってしまった…としています。
香川県神社誌
官社考証によれば、粟井神社火災の為め此処へ遷座以前此の地に地主の神と云ふ小社ありしが当社にして、当社即ち刈田神なるべく、粟井神社遷座以後自然粟井神社を刈田神社と称するに至りしものならむ、日本紀略に『延喜六年二月七日授讃岐国苅田神従五位下』とありて、粟井神社は貞観六年従五位下を授け奉れるものなれば再び従五位下を奉るべきものかはと云へり。三豊郡史に『祭神詳ならざれども、神祇志に武内宿禰なるべしと云へり。思ふに宿禰の裔なる苅田氏の紀伊郷に蔓延せしこと前述の如くなれば此の地在住の紀氏なる苅田氏が其遠祖なる武内宿禰を祭れるものなるべしと載す。
御朱印
御朱印はあります。
参道脇の授与所、あるいは神社向かいにある宮司さん宅で拝受可。
御朱印帳もありましたが、オリジナルかどうかは不明。
当社はあじさいがきれいで、6月にはあじさい祭りが開催されているということもあり、あじさい柄の御朱印帳が人気のようです。
於神社(観音寺市粟井町)と黒島神社(観音寺市池之尻町)の御朱印もこちらでいただけます。
アクセス
周辺で案内を見かけなかったので少しわかりづらいかと思います。
粟井町の、国道377号と県道240号の交差点(位置)を南東へ。1kmほど先の十字路(位置)を右折。
少し進むと玉垣のある坂が左手にありますのでそこを登れば境内です。
入り口の坂(上から撮影)
けっこうきつい坂です。車はこの少し奥の方に停めるのがいいかと思います。
神社概要
社名 | 粟井神社(あわいじんじゃ) |
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通称 | – |
旧称 | 刈田大明神 |
住所 | 香川県観音寺市粟井町1716 |
祭神 | 天太玉命 |
配祀 | 天照皇大神 月読命 保食命 |
社格等 | 式内社 讃岐国苅田郡 粟井神社 名神大 続日本後紀 承和九年十一月乙卯 粟井神 名神 日本三代実録 貞観六年十月十五日戊辰 粟井神 従五位下(写本相違有) 日本紀略 延喜六年二月七日庚寅 苅田神 従五位下(境内社苅田神社) 旧県社 |
札所等 | – |
御朱印 | あり(於神社、黒島神社の御朱印も拝受可) |
御朱印帳 | あり(オリジナルかは不明) |
駐車場 | なし(境内駐車可) |
公式Webサイト | – |
備考 | – |
参考文献
- 「粟井神社」, 『日本歴史地名大系』(データベース「JapanKnowledge」)
- 「粟井神社」, 神社本庁教学研究所研究室編『平成「祭」データ(CD-ROM)』全国神社祭祀祭礼総合調査本庁委員会, 1995
- 香川県神職会編『香川県神社誌 下巻』香川県神職会, 1938(国会図書館デジタルコレクション 225-226コマ)
- 式内社研究会編『式内社調査報告 第二十三巻 南海道』皇學館大学出版部, 1987
- 谷川健一編『日本の神々 神社と聖地 第二巻 山陽・四国』白水社, 1984
- 明治神社誌料編纂所編『府県郷社明治神社誌料 下巻』明治神社誌料編纂所, 1912(国会図書館デジタルコレクション 275-276コマ)