度津神社(佐渡市羽茂飯岡)

度津神社。

佐渡の南西、羽茂飯岡(旧羽茂町大字飯岡)に鎮座。

式内社 度津神社に比定され、佐渡国一宮とされる神社。

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境内

一の鳥居手前の橋

 

一の鳥居

 

社号標

 

二の鳥居

 

二の鳥居扁額

 

社号標

 

手水舎

 

神門下の橋

 

神門

 

見落としたのかもしれませんが、狛犬は見当たりませんでした。『羽茂村誌』には狛犬の写真が掲載されているので、どこかに納められているのかもしれません。

社殿

拝殿

 

本殿

境内社等

八幡宮

 

八幡宮由緒碑

末社 八幡宮

御祭神 誉田別尊(應神天皇)

合祀祭神 豊受大神 当地半太より合祀

       稲荷大神 当地儀蔵寺より合祀

御母神功皇后が三韓征伐の折その胎内におられて御母と共に軍を指揮されたと言ふことから広く武家の信仰を得て武神として崇敬されました

又、その治世に儒学が渡来したことから文学の神としても崇敬されています

御由緒

当社は文明四年(一四七二年)羽茂城主本間對馬守の勧請によるものと伝えられており初めは度津神社に合祀されていたので一般には一ノ宮八幡宮、或は飯岡八幡宮と呼ばれていました。元来当地飯岡の人々の氏神として信仰されていたものです。明治4年度津神社が国幣小社に列せられると、本社の側に一祠を建てゝ遷座し末社として現在に至っております

今の社殿は昭和十二年、本社の御造営の時に新築されたものであります

例祭 四月二十三日

度津神社の例祭日と同じであるが、当日行なわれる流鏑馬神事は羽茂城主本間對馬守の奉納によるものと伝えられ古来八幡宮の行事として行なわれてきたもので今も尚当時の古い形式が伝えられております

乙祭の九月十五日が当八幡宮の昔の祭例日であります

 

獅子殿

 

石祠

『羽茂村誌』に末社熊野大神の記述があったので、もしかするとこの祠のことかもしれませんが、不明。

 

釣り岩と亀石

形からして手前が亀石、奥が釣り岩?

 

五十猛命の「釣り岩」と「亀石」について

度津の御祭神・五十猛命は、一ノ宮の前を流れる羽茂川の上流にある一ノ関(堰)と云う所でよく釣りをして楽しんだと伝えられているが、その堰の渕のすぐ側を通る道路(県道)に接して大きな岩がそそり立ち、そこに腰をかけて釣り糸を垂れたというところから、これを「釣り岩」と言い、又、すぐ下の水中には亀の形をした「亀石」と呼ばれる岩もあって格好の魚の穴場になっていたのである。

然し数年前からの県道の拡幅工事のため、やがてこの「釣り岩」や「亀石」も破壊・埋没されるやも知れず、ここに有志の方々相謀り「五十猛命」の行跡を永く後世に語り伝えんが為に、これを神社の境内に移設したものである。

由緒

由緒碑

度津神社 御由緒

延喜式神名帳(九二七年)に記載されている神社を式内社と言い当時佐渡の国には九社あり、その第一の宮として古来より一ノ宮と称し格式の高い神社でありましたが文明二年(一四七〇年)羽茂川の大洪水により社地・古文書等ことごとく流失した為その由緒、縁起など詳かでありません。その後現在の地に御遷座申し上げたもので明治四年国幣小社に列せられました。現在の御本殿は宝永六年(一七〇九年)に幣殿、拝殿は昭和十二年の御造営によるもので、全部台湾産の檜が用いられております

御祭神 五十猛命

素盞鳴尊の御子にして父神に似て勇猛なことから名付けられました

初め天降ります時、樹木の種子を持ち降り父神と共に朝鮮に渡りのち日本に帰り全土にわたり植林を奨められたので皆青山うつ蒼として繁茂した為に「植林の神」として崇められました。そして宮殿・家屋・舟・車から日用器具の材料に至るまでこの神の御功績に依るところから「有功の神」とも申します

又、人々に造船、航海の術を授けられ各地に港を開かれた事から御社号を度津と称しております。尚、植林と共に道を拓き車の普及に当られた御神徳により今は海上、陸上の交通安全の守護神として全島民から信仰されております

主な祭日

歳旦祭 一月一日

全島交通安全祈願祭 四月二十一日

例祭 四月二十三日

全島海上安全大漁満足祈願祭 四月二十四日

新嘗祭 十一月二十三日

創建時期は不詳。

 

延喜式神名帳にみえる「佐渡国羽茂郡 度津神社」に比定されています。

『朝野群載』に「承暦4年6月10日、奏龜卜御體御卜、(中略)坐佐渡國度津神」云々とあるのが延喜式以降最古の記録。

 

かつて羽茂川の洪水で社地流失し、由緒、縁起、古文書も烏有に帰したといいます。

旧社地については幾つかの説あり。

  1. 文禄2年(1593)6月の洪水で社地流失後、同じ村の八幡宮に合祀。その後元地に再建、八幡宮を相殿とした。(『佐渡志』)
  2. 文明2年(1470)の洪水で流失、文明4年再建と弘仁寺の伝えにあり。旧社地は現社地の東。(『佐渡国寺社境内案内帳』)
  3. 2.の洪水の年は文禄2年(1593)の誤りで、旧社地は現社地の東、別当屋敷字垣の内、字九日田付近。(『羽茂村誌』)
  4. 飯岡の東、羽茂川上流の赤泊村下川茂字猿八に九社神と呼ばれる小山があり、頂上に古くから祠が祀られている。この祠の祭神が彦火火出見命とされることから、度津神社の垂跡地かとする。(『河崎村史料編年志』)
  5. 古代、羽茂郡に水湊郷(現在の羽茂大石付近と推定)があり、海上交通の拠点としてここに港の神が祭られたかとする。(『新潟県県民百科事典』)

 

文化13年(1816)度津神社別当神宮寺と畑野町一宮神社別当慶当寺の間に一宮論争が勃発。

神宮寺が勝訴したため、以降は度津神社が一宮と言われた、とされます(『中世諸国一宮制の基礎的研究』)。

 

明治4年(1871)国幣小社列格。

 

現在の祭神は五十猛命。

大屋津姫命、抓津姫命を配祀します。

この祭神を決定したのは江戸時代の神道家、橘三喜だと言われています。

 

しかしこれは『大日本地名辞書』にて「神代巻に五十猛命が韓郷島へ渡りたまふと云ふに因むのみ、附会を免れず」と批判されています。

また『佐渡国誌』も「祭神ノ如キハ固ヨリ詳ナラサルカ如シ然ラハ本社ノ祭神ハ彼レ三喜ノ撰定奉納シタルニハアラサルカ」として橘三喜による祭神の決定を疑い、引田部神社の祭神が大己貴命とされていたのに、橘三喜が猿田彦命の神号を納めたことを根拠として挙げています。

 

『佐渡国誌』で述べられているように、そもそも当時は当社祭神がよく分からなくなっていたようです。

『佐渡志』や『神名帳考証』では海童神を祭神とする説を挙げています。

御朱印

御朱印はあります。

社務所で拝受可。

アクセス

国道350号を真野湾のあたりから南下。しばらく走ったところ(位置、説明しづらい…)で県道287号に入ります。

この辺は案内が出ていないのですが(見落としただけかもしれませんが)、神社のすぐそばにある温泉・クアテルメ佐渡の案内が上記県道に入る少し手前に出ていたので、それを目印にするのもいいかも。

少し走ると県道81号との交点の十字路(位置)に出ます。ここには佐渡一の宮(度津神社)の案内が出ていますので、それに従い左方向へ。そのまま道なりに行けば、神社の前に着きます。

境内入口脇に駐車場あり(位置)。

神社概要

社名度津神社(わたつじんじゃ)
通称
旧称一之宮八幡宮
住所新潟県佐渡市羽茂飯岡550-4
祭神

五十猛命

現祭神

海童神

『佐渡志』

『神名帳考証』

配祀

大屋津姫命

抓津姫命

社格等

式内社 佐渡国羽茂郡 度津神社

佐渡国一宮

旧国幣小社

別表神社

札所等
御朱印あり
御朱印帳全国一宮御朱印帳あり?
駐車場あり
公式Webサイト
備考旧地は現社地の東、別当屋敷字垣の内・字九日田付近、赤泊村下川茂字猿八の九社神と呼ばれる小山山頂の祠、羽茂郡水湊郷(現在の羽茂大石付近と推定)など複数説あり

参考文献

  • 「度津神社」, 『日本歴史地名大系』(データベース「JapanKnowledge」)
  • 「度津神社」, 神社本庁教学研究所研究室編『平成「祭」データ(CD-ROM)』全国神社祭祀祭礼総合調査本庁委員会, 1995
  • 式内社研究会編『式内社調査報告 第十七巻 北陸道3』皇學館大学出版部, 1987
  • 谷川健一編『日本の神々 神社と聖地 第八巻 北陸』白水社, 1985
  • 新潟県神職会佐渡支部編『佐渡神社誌』新潟県神職会佐渡支部, 1926(国会図書館デジタルコレクション 91-94コマ