水神社。
角館駅の南南東5kmほどの位置に鎮座。
秋田県唯一の国宝「線刻千手観音等鏡像」を御神体とする神社。
境内
鳥居
参道入口、道路沿いの杉
中仙地域豊川地区にある水神社の境内に生育するスギで、参道の一番手前と一番奥の両側にたつ四本が指定を受けている。水神社は延宝五年(一六七七)に出土した秋田県唯一の国宝である鏡(線刻千手観音等鏡像)を御神体としてまつり、その翌々年参道の両側に杉が植えられた。昭和十八年(一九四三)、戦時体制の中で造船用材として大部分が伐採されたが、残された杉の中でこの四本は珍しく植えられた年代がはっきりしている。
国宝御神鏡の碑
二の鳥居
二の鳥居前の木(杉?)は市指定の天然記念物ではない模様
狛犬
三の鳥居
鳥居の後方左右に見える杉は市指定天然記念物。左側の杉が境内で一番大きそう。
手水鉢
社殿
拝殿
扁額
本殿
本殿後ろにある保管庫
ここに国宝が保管されています。
境内社等
社殿右側後方にある祠
元宮と刻まれています。秋田県神社庁の当社ページには「古来よりあった草堂の豊受大神・大山祗神・猿田彦神を境内元宮地に板堂を建立、現在は石堂」とあるので、水神社より前からこの地にあった社なのでしょう。
米澤山普門寺と彫られています
普門寺宝生院の頃のものでしょうか。
壊れた手水鉢
由緒
【鏡の出土】
御鏡は、延宝五年(一六七七年)玉川から窪堰川まで水路(下堰)を引いている途中野中村三棟谷地(みむねやち)の地中五尺程(約一.五m)から掘り出されました。発掘した人は、横堀村の肝煎り川原仁右エ門の子、弥十郎という人でした。川原家では発掘後、家に持ち帰り内神として祀っていましたが、藩に差し出すようにと命があり水路を注進していた草彅理左エ門の子伝吉が藩主の佐竹義処に差し出したところ「この鏡は堰を掘るときに出たのであるから、堰神として祀るように」と仰せになり祭祀料として米三石を賜りました。そこで理左エ門は、従来この地に「観音堂」と称した草葺の古堂のあったこの社地に翌六年、新たに米沢観世音御堂を建立し「米沢山普門寺宝生院」と名付け、旧白岩寺山というところにいた山伏寺蓮寿院を呼び寄せ、別当として永久に御鏡を守護することになりました。ところが、明治の世、廃仏毀釈の法令がだされ御鏡を守るために水に縁のあるところから「水神社」と呼称し祭神は「水波能売命」として氏子地域の篤い奉護のもと御鏡は御神鏡として祀られています。
【御神鏡について】
青銅で表面を錫鍍金し形は八つの突起を持つ八陵鏡です。直径四寸五分(十三.五cm)厚さ二分(六mm)、重さ一四〇匁(五二五g)、鏡面には真中に、十一面四十手の千手観音の立像蓮台に立ち、仏具を一個づつもって四十手の指を巧みに描き、又この脇士に左に功徳天、右に裸体の婆蘇仙の像を、豊満な女神と、やせ細った仙人を対照的に描き、その上左右に観音八部衆と思われる守護の神八体も線刻(蹴彫)されています。裏面は水鳥と蝶を配し、中央に紐をつける径七分(二.一cm)の半球体の摘みをつけてあります。 また、背面の文様の間には三行にわたり次のような文字が刻まれています。
「崇紀 仏師僧」
「大趣具主 延暦僧仁祐」
「女具主 藤源安女子」
【御神鏡の由来】
嘉永年間に角館の儒者茅根恵風が奉納した懸額によれば、宝暦三年(一七五三年)延暦寺の僧快寧が諸国巡行の際に普門寺を訪れ、「これは桓武帝の延暦十五年(一一八一年)の頃のもので、この鏡は二面あって、ひとつは長女安子姫、ひとつは次女某姫が所持していたもので、両姫たちの疱疹軽快、安産を祈るために(千手観音)を彫らせ、清水寺に奉納したそのひとつを、坂上田村麻呂将軍が東北平定の折、守り神として持参した」と伝えられています。
【二度の国宝指定】
昭和十三年旧国宝保存法に基づく国宝指定となり鏡の裏面の模様の様子から「瑞花蝶鳥八稜鏡(ずいかちょうちょうはちりょうきょう)」と名称されました。
その後昭和二十八年に行われた文化財保護法の改法による国宝再審査で再び指定を受けました。この時は、鏡の表面の蹴彫り仏像から「線刻千手観音等鏡像(せんこくせんじゅかんのんとうきょうぞう)」と改称されました。
御鏡の国宝としての価値は、錫鍍金した鏡面に、仏像を現した蹴彫芸術そのものにあります。その蹴彫は藤原時代上期の作といわれています。現在、秋田県唯一の国宝である御神鏡は、毎年例祭日(八月十七日)に開帳し拝観いただいております。
国宝 線刻千手観音等鏡像
水神社の御神体として祀られる御神鏡は、昭和十三年三月に開かれた文部省国宝会議において「国宝指定」となり、鏡の裏面の模様の様子から『瑞花蝶鳥八稜鏡』と命称されました。その後昭和二十八年十一月に行われた国宝再審査で再び指定を受け、県内唯一の国宝となりました。この時、これまでの名称から鏡の表面の毛彫り仏像から『線刻千手観音等鏡像』と改称されました。
御神鏡は青銅で表面を錫鍍金したもので、直径四寸六分(十三.九㎝)厚さ二分(六㎜)、重さ一四〇匁(五二五㌘)、形は八つの突起をもつ八稜鏡です。
中央に十一面、四十手の千手観音が蓮台の上に立像し、脇侍として、左に功徳天、右に裸体の婆蘇仙の像が、豊満な女性の肉体と餓鬼のように痩せこけた仙人の肉体を対照的に描き、その左右上には観音八部衆と思われる守護神八体が力強い線で現されています。
国宝としての価値は藤原時代上期の優れた巧み、仏像を現した蹴り彫り芸術にあります。
■蹴り彫り
彫金の技法の一つ。鏨の刃先の一方を浮かせて蹴るようにして彫り、楔形を点線上に連ねて紋様を表すもの。
延宝5年(1677年)、玉川から窪堰川まで水路(下堰)を引いている途中、野中村三采女谷地(三棟谷地/三采谷地の表記もあり)の地中1.5mから鏡が出土。
発掘した川原弥十郎は内神として祀っていましたが、命により藩主の佐竹義処に差し出します。
そこで堰神として奉斎し鎮守する様指示があり、「観音堂」と称した草葺の古堂のあった当地に延宝6年(1678)米沢観世音御堂を建立し「米沢山普門寺宝生院」と命名。
境内案内板には「旧白岩寺山というところにいた山伏寺蓮寿院を呼び寄せ」とありますが詳細不明。
Web上で「蓮寿院普門寺」を「仙北西国三十三観音」の第16番札所として記載しているページが見られました。
雄物川町郷土史資料第23集所収の『仙北三十三観音巡拝記について』に詳しいようなのですが、未確認。
秋田県神社庁の当社ページには「草葺の古堂に祀られた」「貞享2年8月本堂を再建し、御神鏡・水神として奉戴」「古来よりあった草堂の豊受大神・大山祗神・猿田彦神を境内元宮地に板堂を建立、現在は石堂」「八幡大神は隣地国見村へ分祀し八幡神社とす」とあります。
この辺りの経緯がよくわからないのですが、
- 元々当地にあった草葺の古堂(観音堂)に鏡を祀る
- それとは別に米沢観世音御堂を建立し「米沢山普門寺宝生院」と命名
- 貞享2年8月に鏡を祀る本堂を造営(再建とあるのは草堂が損壊したため?)
- 草堂跡に元宮として板堂を建立し旧来の祭神を祀る(後に石堂になる)
- 草堂に祀られていた八幡神のみ隣村へ分祀(遷座?)
といった流れなのでしょうか。
元宮は鏡の発見以前から観音堂として存在していたようですが、いつからかは不明。
元宮の祭神は豊受大神・大山祗神・猿田彦神とされていますが、元が観音堂だったので明治になって定められたのでしょうか。
明治元年(1868)までは観音堂と称していましたが、廃仏毀釈から鏡を守るために明治9年(1876)に社名を水神社、祭神を水波能売命としました。
明治2年から8年までの間については不明。
当社の創祀時期について、実際には米沢山普門寺宝生院が建立された延宝6年になると思うのですが、秋田県神社庁のページによると、「諸記録に神社創立日を貞享2年8月20日と定められている」。
この日は本堂が再建された日。水神社になったのは上記の通り明治9年。
神社庁ページでは「明治初年まで観音堂と称していた」とある以外仏教的要素に全く触れていないので、境内案内板の内容との間に矛盾が生じてしまっています。あるいは貞享2年の本堂再建時から鎮守神として祀られていたのかもしれませんが…
御神体の「線刻千手観音等鏡像」の由来については、角館の儒者茅根恵風が奉納した懸額に、宝暦3年(1753)延暦寺の僧快寧が当地を訪れた時に語った内容が記載されているそうです。
それによればこの鏡は延暦15年(1181年)の頃のもので、源安(頼光四天王の一人渡辺綱の孫)の長女安子姫、次女某姫の疱疹軽快、安産を祈るために千手観音を彫らせ、清水寺に奉納した2面のうちの1つだとされます。
坂上田村麻呂が東北平定の折、守り神として持参したともあるようですが、上述の時期に奉納されたのであれば田村麻呂の没後となるので時代が合いません。
オリジナルは年に一度、8月17日の例祭時にしか拝観できませんが、レプリカが中仙市民会館ドンパル(秋田県大仙市北長野字袴田95)に常時展示されています。
個人的には、戦前の名称「瑞花蝶鳥八稜鏡」の方が今の「線刻千手観音等鏡像」より恰好良くて好きです。
線刻千手観音等鏡像(複製)
こちらがドンパルにあるレプリカ
表面の絵図と神社の写真
国宝「線刻千手観音等鏡像」(複製)
秋田県で唯一、国宝に指定されております(昭和28年11月14日鏡像指定)。
青銅製の八稜鏡で、錫メッキを施した鏡像面の中央に千手観音菩薩立像、上部に観音八部衆、両側に婆薮仙人を功徳天の姿が精巧緻密なタガネ跡の毛彫線で描かれております。
鏡面には、瑞花蝶鳥紋様に「崇紀 仏師僧 大趣具主延暦僧仁祐 女具主藤原安女子」の金石文が三行に毛彫りされております。
平安時代前期の貴重な仏教美術品として、往時の文化を今に伝えています。
並んで展示されている瑞花文円鏡のレプリカ
オリジナルは個人所有の様です。県指定重要文化財。
県指定重要文化財「瑞花文円鏡」(複製)
冨岡宗家に伝わる古鏡は白銅製で、中央から二つに割れた残欠です。
鏡像面から「阿弥陀三尊等像鏡」ともいわれております。
九尊の仏像が毛彫りされており、その一角には「長元四年(1031年)七月十三日、旦主代公冨岡、女旦主須未古公夏虫」と彫り込まれています。
鏡面には、唐草文の唐草を巡らし、劔座(中央のつまみ)は八葉の蓮弁をかたどった唐時代の代表的な図文です。
平安時代前期のすぐれた仏教文化財として、往時の文化を今に伝えています。
(昭和31年5月21日鏡面指定)
御朱印
御朱印の有無は不明。
アクセス
角館から国道105号を南下し、玉川を渡り大仙市に入ったあたり(位置)から県道11号を東へ。そのまま4km弱走ると神社前へ。
鳥居右手(南側)に駐車場とトイレあり(位置)。
神社概要
社名 | 水神社(すいじんじゃ) |
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通称 | – |
旧称 | 観音堂 米沢観音 |
住所 | 秋田県大仙市豊川字観音堂57 |
祭神 | 水波能売命 |
社格等 | 不明 |
札所等 | 仙北西国三十三観音(?) |
御朱印 | 不明 |
御朱印帳 | – |
駐車場 | あり |
公式Webサイト | – |
備考 | 御神体は国宝「線刻千手観音等鏡像」(中仙市民会館にレプリカ常設展示) |
参考文献
- 「豊川水神社」, 『日本歴史地名大系』(データベース「JapanKnowledge」)
- 「水神社」, 神社本庁教学研究所研究室編『平成「祭」データ(CD-ROM)』全国神社祭祀祭礼総合調査本庁委員会, 1995