静岡浅間神社。
静岡市葵区宮ケ崎町に鎮座。
登記上の宗教法人名は神部神社・浅間神社・大歳御祖神社で、静岡浅間神社はその三社(及び摂末社)の総称。
旧国幣小社で現在は別表神社。神部神社は駿河国総社論社かつ式内社比定社、大歳御祖神社は式内社論社。
境内・社殿
東の長谷通り側に神部神社・浅間神社、南の浅間通り側に大歳御祖神社がそれぞれ鎮座しています。
神部神社・浅間神社
石鳥居
総門(国指定重要文化財)
社号標
御神水井戸
この井戸は、寛文十年(一、六七〇年)の境内絵図に既に記載があり、三代将軍家光公造営の折には現存していたことが明らかであります。
大御所公は幼少人質の折当神社付近で遊んでおり、又、駿府在城の時には度々当神社へ参拝しておりますので、この井戸にて御手水をされたことが窺い知れます。
又、当時当神社の全ての諸祭儀他にも使用され更に大神様のご神霊の籠った「御神水」として深く信仰されておりました。
明治以降は空井戸として保存されておりましたが、今度平成御大典記念事業として、崇敬者各位の要望と御奉賛により再興し、上屋を復元したのであります。
この「御神水」は、大神様の疫病退散、延命長寿の御神徳を受けるものとして霊験殊の外あらたかであります。
楼門(国指定重要文化財)
扁額
左右に手水舎
舞殿(国指定重要文化財)
大拝殿(国指定重要文化財)
高さ25mで、木造神社建築としては日本一の高さなのだそうです。
本殿(国指定重要文化財)
比翼三間社流造という形式で左に浅間神社、右に神部神社が祀られています。
境内社の玉鉾神社の辺りから少し見えます。手前に木がありわかりづらいですが、中門が2つあるのはかろうじて見えます。本殿特別参拝が可能な時には、近くまで行って見られるようですが…
大歳御祖神社
大歳御祖神社が面する浅間通りの入口の大鳥居
大歳御祖神社の赤鳥居
社号標
手水舎
神門
拝殿
本殿(国指定重要文化財)
こちらもよく見えません。賤機山古墳への道の途中から、側面が少し見えます。
中門と透塀も重文。
賤機山古墳
大歳御祖神社の後方に、国指定史跡の賤機山古墳があります。
墳丘
平成になってから保存修復工事が行われたそうです。
手前には内部構造がわかる模型が置かれています
扉の装飾
中に入ることはできませんが、照明があるのでここから内部を見ることができます。
向き合う二羽の鳥(鳳凰)は、賤機山古墳から出土した「大刀円筒柄頭」に施された銀象嵌文様をデザイン化したものです。
家形石棺
賤機山古墳
賤機山古墳は、静岡平野の中心部に突き出た賤機山の南端に造られています。
葬られた人物は特定できませんが、6世紀後半にこの地方を治めた有力な豪族の墓と考えられます。
古墳の形は、直径約32メートル・高さ約7メートルの円墳で、内部には巨大な横穴式石室が造られ、石室内には遺体を納めた家形石棺が置かれています。
横穴式石室
賤機山古墳の横穴式石室は、巨石を組み上げて造られ、県内最大の規模を誇ります。
石室は、遺体を安置する玄室と、玄室への通路である羨道~前庭とからなり、南に開く羨道の入口は、遺体を納めた後で人頭大の川原石が積まれ塞がれました。
玄室と羨道の床には、拳大の川原石が敷き詰められ、奥から入口にかけては緩やかに傾斜しています。
玄室と羨道の上には、重さ14トンを超える巨大な石を含む7個の天井石が載せられ、天井石の上は雨水の浸透を防ぐために、粘土で覆われています。
石室の石材は、高草山南端の大崩海岸から運ばれたと考えられています。
家形石棺
賤機山古墳の石棺は、家の屋根の形をした蓋と、箱形の身の部分から成る長さ2.91メートルの大形の家形石棺で伊豆の凝灰岩を刳り抜いて作られています。
蓋には、四角形の突起が、左右に3対(6個)と前後に1対(2個)付いています。8個もの突起を持つ家形石棺は、全国的には珍しく、この地方独特のかたちと言えましょう。
蓋と身との合わせ目には、ベンガラ(鉄の赤色酸化物)が塗られていました。
出土遺物
石室内は、過去に盗掘に遭い、副葬品の一部は失われました。特に、石棺は側面に穴をあけて内部が荒らされ、棺内には、冠帽の破片やガラス玉などがわずかに残されていたのみです。
しかし、石棺外には、遺物が数多く残され、中でも奥壁の前、石棺の西側、羨道からは、それぞれまとまって出土しました。遺物には土器や装身具、武器、武具、馬具、銅鏡、銅腕などがあり、これらの遺物の時代は、6世紀後半から7世紀前半に及んでいます。
また、前庭の入口では、数個の甕が破片の状態で出土しましたが、これは、墓前でのお祭りで使われたものと考えられます。
境内社等
玉鉾神社
祭神
羽倉東麿大人命 岡部真淵大人命 本居宣長大人命 平田篤胤大人命
祭礼日
例祭 三月二十九日 月次祭 毎月二十九日
春季祭 春分の日 秋季祭 秋分の日
由緒
当社は国学の祖神たる四大人を奉斎し、明治九年三月、静岡県内の神職有志が官許を得て創立した。玉鉾の道の祖神を祀る意を以て玉鉾神社を称した。例祭及月次祭には和歌を献詠する習となっている。祭神の遺徳を称え、学業成就(受験・進学)の神として広く崇敬されている。
社殿
昭和十五年に紀元二千六百年記念として造営された社殿は、昭和四十九年の七夕豪雨で全壊したため伊勢の神宮式年遷宮の古材を賜り、昭和五十二年十一月静岡県内神職の奉賛を得て再建新築された。本殿仕様・一間社流造(向拝付)青木造、屋根銅板平葺 建坪一・五五坪(五・一二坪)、桁行六尺(一・八二米)、梁間九尺三寸(二・八五m)
少彦名神社
修繕中でした(2016年)が、本殿は重文。
例祭日 一月八日
本社は少彦名命を主神とし他に神部神社末社十四社の祭神を相殿とする
もと神宮寺薬師社と称し薬師十二神を祀っていたが維新後神仏分離に際し臨済寺に遷され現在は少彦名命をご祭神とする 社殿は入母屋造銅瓦葺 朱塗で細部に彩色を施し特に欄間に飾られた立川流彫刻「十二支」は名作として著名である
古来境内社として病気平癒の信仰すこぶる篤く、御例祭には市内薬業関係者多数の参列がある
八千戈神社
本殿・中門・透塀は重文。
例祭日 十月十五日
本境内社は明治以前は徳川家康公が合戦で常に奉持した念持仏の摩利支天を祀ったことから東照公ゆかりの摩利支天社と称された
維新後神仏分離に際し金印木像は臨済寺に遷され以後八千戈命をご祭神とする
昭和五年五月二十九日昭和天皇御親拝の折には神部浅間両社御修理中で当社を仮殿としていたのでこの大前で御親拝あらせられた
当社は東照公ゆかりの幕府崇敬の社で社殿の造営も本社に次いで行はれた
特に名工の誉高い立川和四郎富昌の彫物が中国の二十四の親孝行物語を題材に社殿周囲欄間に飾られていることは著名である
現在では武神として信仰され一般に勝負事の祈願所として広く信仰をあつめている
写真集は社務所にあります
八千戈神社横の宝殿
麓山神社への石段
麓山神社
一時は独立した郷社だったようです。
拝殿・本殿・中門・透塀は重文。
麓山神社からもうちょっと登った辺りから富士山がよく見えます
神馬
伝 左甚五郎作
しづやしづはたせんげん様のなんでも叶う白い馬
この神馬に一心に祈れば、何でも願い事が叶うというところから、叶え馬といわれています。
その昔、浅間神社が火事になった時、二頭の木の神馬が、三保明神に逃げてしまいました。そして、火事がおさまると、一頭は浅間神社に戻ってきましたが、もう一頭はそのまま三保明神にとどまったと伝えられています。
(浅間神社の七不思議の内のひとつであり、あの有名な「ちゃっきり節」の歌詞にも出ています。)
由緒
神社名 | 祭神名 |
神部神社 | 大己貴命(別名・大国主命) |
淺間神社 | 木花開耶姫命 |
大歳御祖神社 | 大歳御祖命(別名・神大市姫命) |
通称 静岡浅間神社
例祭日 四月五日(廿日会祭四月一日~五日稚児舞楽・踟行事)
特殊神事
奉射祭(大的式)一月十五日・節分祭 二月三日又は四日(鬼やらひ)
神衣祭 四月二日 九月廿五日・昇祭、降祭 四月三日 四月四日 十一月三日 十一月四日
境内社
麓山神社 八千戈神社 少彦名神社 玉鉾神社
由緒
三社からなる当社は、海道屈指の名社として朝野のあつい崇敬をうけ、殊に、駿府(現静岡市)に縁り深い徳川家康公の崇敬以来、徳川幕府の宗廟として崇められた。
神部神社
崇神天皇七年(紀元前九〇年)の鎮座と伝え、延喜式内社で倭文機神社・美和明神とも別称され、この地方最古の社。制による国府がこゝに置かれ駿河国総社と仰がれた。次の各社と共に、夫々が、県社(明治六年)に列格され、国幣中社(明治廿四年)に昇格した。
淺間神社
醍醐天皇の勅願により延喜元年(九〇一年)富士山本宮浅間大社の分霊を勧請したと伝え、全国千三百余社の分祀のうち最大最古の社。富士山を神体山と仰ぎ冨士新宮と称えられる安産子授けの神。後世、仏説の影響で「センゲン」と音読する。
大歳御祖神社
応神天皇四年(二七三年)の鎮座と伝え、延喜式内社で奈吾屋社・大歳天神とも別称された。上古からの「安倍乃市(現市街)」の守護神・地主神として崇められてきた。社名は、大年神・倉稲魂神(稲荷大神)の母(御祖)神の意を表わしている。
この三社は、静岡市街の北北西の方位、「静岡」の地名の由来となる賤機山(賤ヶ丘)の最南端に、神部・淺間両社は東面して、大歳御祖神社は南面して祀られる。古くから朝廷をはじめ、国司・武門・武将が崇敬し、徳川家はもとより、各時代に於て北条氏(鎌倉幕府)・今川氏・武田氏が社殿の造営、社領の安堵等の赤誠を捧げた。
社殿
”東海の日光”と称揚される社殿群は、全二十六棟が江戸後期を代表する神社建築として重要文化財に指定されている。舞殿以外は、全て総漆塗・極彩色で、神部・淺間両社の「大拝殿」は、浅間造の特殊建築で棟高二十五・八米の豪壮な規模を誇り、同「本殿」の彫刻と生彩色の華麗さは、全国に比類をみない建築装飾の秀作である。特に彫刻類は、立川和四郎富昌をはじめ立川流一門の爛熟した技を凝らしている。
史蹟
国指定史蹟「賤機山古墳」大歳御祖神社後背山上にあり、横穴式石室にこの地方随一の規模を誇る家形石棺を納める。武具・装飾品など豊富な副葬品が出土し、六鈴鏡・忍冬唐草紋鞘口金具・鳳凰紋円頭柄頭などが発見された。六世紀頃の墳墓である。
宝物資料
太刀(銘)備前長船住長光(重文)・狩野探幽三十六歌仙扁額・山田長政奉納戦艦図その他
主祭神 大歳御祖命 別名 神大市比売命 配祀神 雷神
鎮座地 静岡市葵区宮ケ崎町百弐番地壱
例祭日 四月五日
由緒略記
「静岡」という地名の由来となる賤機山の南端に南向に鎮座し奈吾屋神社・奈吾屋明神とも別称され、応神天皇四年(二七三年)の創祀と伝えられる。万葉集巻第三”焼津辺に吾が行きしかば駿河なる安倍の市道に合ひし子らはも”にみえる「安倍の市(今の静岡市街)」の守護神で、延喜式内社・旧国幣小社である。主祭神は、倉稲魂命(稲荷大神)の母神で、農・工・商業の守護神として崇められている。
後水尾天皇の御製に”賎機の山も動かぬ君が代になびく奈古屋の杜の松風”と詠まれ、約100m北側に東向に鎮座する神部神社・浅間神社の両社と共に、古くから朝野の崇敬をあつめた。殊に、徳川将軍家は、天正・寛永・文化の三度に亘り、総漆塗・極彩色の壮麗な社殿を造営寄進した。大東亜戦争末期に拝殿・楼門等を焼失したが、形式を異にして復興された。本殿〔総漆塗・極彩色三間社流造向拝付〕・中門〔総漆塗・極彩色一間一戸平唐門〕・透塀〔総漆塗腕木門付〕は、他の社殿群と共に、国の重要文化財に指定されている。後背丘陵上には、六世紀頃と推され、家形石棺と豪華な出土品等で有名な、国指定史跡「賤機山古墳」がある。
神部神社
社伝では崇神天皇7年(B.C.90年)とされているようです。
公式サイトの由緒に「『類聚国史』に従一位と記載されており」とありますが、現存する類聚国史にはみえず、『駿河記』はこれを偽作の文とします。
同書は社伝からの引用?として「類聚国史巻十六云。仁明天皇承和二年乙卯三月十七日。駿河国安辨郡止豆鰭大巳貴神授従二位。陽成天皇元慶元年丁酉十一月三日駿河国安辨郡止豆鰭大巳貴神授従一位」と記しています(ただし惣社末社杵築神社の項に記している)。この他にも類聚国史曰、として複数の記述が並んでいますが、「後世の偽作なること勿論なり」と切り捨てています。
延喜式神名帳にみえる「駿河国安倍郡 神部神社」は当社に比定されています。
平安時代以降は国府に近かったため駿河国総社となったようです。
貞応3年(1224)惣社と富士新宮が焼失、鎌倉幕府から検分のため使者が派遣されたことが『吾妻鏡』にみえます。この頃既に富士新宮・惣社・奈吾屋社は一体化が進んでいたとみられます。
以降は今川氏、武田氏による崇敬、保護あり。
天正の頃に徳川家康が武田の賤機山城攻略の際に社殿を焼き払い、慶長の頃に再建されたといいます。
その後徳川氏もまた崇敬し、その宗祀的存在となったといいます。
寛永年間に大造営が行われるも、安永・天明の二度の大火で焼失。
現社殿は文化年間に起工、60余年後の慶応元年(1865)に再建が成ったもの(『式内社調査報告』は幕府の政治経済上の都合で工事打切未完成となったとしますが不明)。
明治6年県社に、同21年国幣小社に列格(『静岡県神社志』に「各別に国幣小社に列格」とあるので、3社それぞれ国幣小社という扱いだったのだと思いますが、同書の見出しは3社まとめて国幣小社みたいな書き方なので、よくわかりません)。
『駿河記』『駿河志料』では、「惣社」と「神部神社」が別であるように書かれています。
『駿河記』は「浅間神社 志豆機神社両本社 称惣社大神」とした上で、摂末社の一つとして「明神七社」を挙げ、「此社を延喜式に載る神部の社なりと云は(後略)」とします。別項に神明七社として「天照太神 日若宮 諏訪 天神 文幡 三嶋 足高祭神不詳或云神部神社」とあります。
また、類聚国史(上掲の偽作とされるもの)の神階授与は惣社末社 杵築神社に対するものだとします。
『駿河志料』は「浅間新宮 駿州総社」「両社神殿 相殿作りなり両本社と称す」とした上で「惣社摂社末社」項に「神部神社 惣社本社の横にあり、七社相殿なり 祭神天照大神 社記に、当社は延喜式神名帳所載神部神社なり、風土記に神部神社則日本武尊所祭大神宮と見えたるは、此社なりと云へり、風土記残策に、此社神戸郡にありし由に見えたり、されど、今此郷名の地と思しきなし、天正十五年新宮親貞記に、神領神門町と云あり、神部は神戸とも云へば、神戸、神門と云ふ語の転ぜしにはあらぬか、其地は今府城の北にて、天正中府城経営の時、上地となりし所なれば、其地に社のありしを、当社へ遷されしならん」とします。
元は神門町(駿府城の北にあたる)に鎮座したのを、築城に伴い今の地に遷座したということでしょうか。
また「神部神社、倭文幡神社、三島社、足高社、日若宮、諏訪社、天津社」が七社相殿とし、本社横七社の北に杵築社があるとします。
二書の書かれた1800年代には、末社七社の天照太神社(神部神社)あるいは足高社を式内社とする説があったのだと思われます。
現祭神は大己貴命。
『式内社調査報告』は、当地方が秦氏の文化圏であったことから、草創時は機織に関する神を祀ったのではないかとします。
『日本の神々』もまた、『駿国雑志』『駿河志料』などに「倭文機神社」「倭文幡山」と記されること、神部神社・浅間神社に栲幡千々姫が合祀されていることなどから、「古代倭文部の職能神、部の神が倭文幡神社であり、それが時の流れのなかで神部神社に合祀され、社殿を失った」という説を提示しています。
『神名帳考証』『神名帳考証土代』は田々彦命とします(「旧事紀云、素戔嗚尊十一世孫田々彦命、瑞籬朝賜神部直姓」)。
なお『駿河記』の惣社末社 杵築神社項に以下のようにあります。
「惣社神主の家記に、惣社は大巳貴命にて崇神天皇の御宇志津機山に祭る所なりとあるは、本社の如く聞ゆれ共、正しく類聚国史の文に、惣社は栲幡千々姫を祭ると記したれば、神主家の説いかゞなり。其大巳貴命を本社の神号とするものは、こゝに引承和年間神位を授られし時、止豆鰭大巳貴命とあるを以て、本社相殿の如くにいひなせしなるべし。然れども此杵築の社は余の末社の例とは見えずして今も厳然と本社と並びて一路高き所に一棟作りの社にて、摂社とも云べき様に見ゆるは、かく神位も奉りし程の社なればなるべし」
神部神社の祭神が大己貴命であること、類聚国史に従一位と記載と神社公式の由緒にあることからすると、現在はこの惣社神主家の説が採用されているように思えます。どんな経緯でそうなったかはわかりませんが…
七社相殿の末社と杵築神社は、現在は少彦名神社の相殿に祀られている「日少宮、諏訪神社、天津神社、内宮、賤機神社、足高神社、三嶋神社、杵築神社」に当たると思いますが、推測です。
淺間神社
醍醐天皇の勅願により、延喜元年(901)に富士山本宮浅間大社の分霊を勧請し、「冨士新宮」として祀られたと伝わります。
総称としての静岡浅間神社の読みは「せんげん」ですが、当社個別の読みは「あさま」。
祭神は浅間大社と同じく、木之花咲耶姫命。
大歳御祖神社
惣国風土記によれば創建は応神天皇4年(273)とされます。
延喜式神名帳にみえる「駿河国安倍郡 大歳御祖神社」に当社を当てる説があります。
奈吾屋神社・奈吾屋明神とも称されたといわれますが、奈吾屋社と大歳御祖神社は別々の社だったとする説もあります。
その説によれば、奈吾屋社は倭文機部の祖先を祀った社で、元は賤機山上に鎮座。大歳御祖神社は安倍市の守護神。それが後に一つになったとされます。
『式内社調査報告』は、安倍川の洪水で安倍市も市神も流されてしまい、奈吾屋社の境内に遷ったのではないかと推測しています(安倍市の場所は不明ですが、『静岡県史(旧版)』は上石町・梅屋町・人宿町・七間町、両替町の一部にわたるという説を、『静岡市史(新版)』は馬場町付近とする説を唱えています)。
現祭神は大歳御祖命(神大市比売命)。
『式内社調査報告』は、本来は市に関係のある神を祀ったと推測しています。
御朱印
御朱印はあります。
静岡浅間神社の御朱印と、神部神社、浅間神社、大歳御祖神社それぞれの御朱印があります。この4種類は直に書いていただけます。
境内社の麓山神社、八千戈神社、少彦名神社、玉鉾神社の御朱印もありますが、基本は書置きになります(祭事などで直書き対応可の時もあるそう)。限定御朱印もよくやっているみたいです。
オリジナル御朱印帳もあります。
これとは違うデザインも出たみたいです(下記リンク先参照。そしてこちらのデザイン頒布終了?)
アクセス
静岡駅あたりから県道27号を北上し、片羽町交差点(位置)を右折。
突き当りの信号を左折。その先境内に沿って少し行くと左手に駐車場入口が現れます。
入口に駐車券発行機がありますが稼働しておらず、無料で停められました。ただし30分以内とするよう注意書きあり。
ゆっくり参拝したい場合(あるいは駐車場が混んでいる場合)は、近隣のコインパーキングに停めるのも手です。神社の公式サイトに近隣駐車場の案内が出ています。
神社概要
社名 | 神部神社・淺間神社・大歳御祖神社(かんべじんじゃ・あさまじんじゃ・おおとしみおやじんじゃ) | |
---|---|---|
通称 | 静岡浅間神社 | |
旧称 | – | |
住所 | 静岡県静岡市葵区宮ケ崎町102-1 | |
祭神(神部神社) | 大己貴命 | 現祭神 |
田々彦命 | 『神名帳考証』 | |
祭神(淺間神社) | 木之花咲耶姫命 | |
祭神(大歳御祖神社) | 大歳御祖命(別名・神大市比売命) | |
配祀(神部神社) | 瓊々杵命 栲幡千々姫命 東照宮 | |
配祀(淺間神社) | 瓊々杵命 栲幡千々姫命 | |
配祀(大歳御祖神社) | 雷神 | |
社格等 | 式内社 駿河国安倍郡 神部神社(神部神社) 式内社 駿河国安倍郡 大歳御祖神社(大歳御祖神社) 駿河国総社(神部神社) 旧国幣小社 別表神社 | |
札所等 | – | |
御朱印 | あり | |
御朱印帳 | あり | |
駐車場 | あり | |
公式Webサイト | http://www.shizuokasengen.net/ | |
備考 | 神部神社はかつては神領神門町に鎮座? 大歳御祖神社はかつては安倍市近辺に鎮座? |
参考文献
- 「静岡浅間神社」, 『日本歴史地名大系』(データベース「JapanKnowledge」)
- 「静岡浅間神社」, 神社本庁教学研究所研究室編『平成「祭」データ(CD-ROM)』全国神社祭祀祭礼総合調査本庁委員会, 1995
- 教部省編『特選神名牒』磯部甲陽堂, 1925(国会図書館デジタルコレクション 184,185コマ)
- 式内社研究会編『式内社調査報告 第九巻 東海道4』皇學館大学出版部, 1988
- 静岡県郷土研究協会『静岡県神社志』静岡県郷土研究協会, 1941
- 谷川健一編『日本の神々 神社と聖地 第十巻 東海』白水社, 1987
- 中村高平『駿河志料 第3編』静岡郷土研究会, 1930, p.118-133(国会図書館デジタルコレクション 122-137コマ)
- 伴信友『神名帳考証』(『伴信友全集 第一』国書刊行会, 1907-1909(国会図書館デジタルコレクション 124コマ)
- 度会延経『神名帳考証』(佐伯有義編『神祇全書 第一輯』思文閣, 復刻版, 1971.所収)