御穂神社(静岡市清水区三保)

御穂神社。

清水区三保、名勝三保の松原近くに鎮座。

式内社 御穂神社に比定され、駿河国三宮ともいわれる神社。

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参道・神の道

参道・神の道

最初の写真のところから450mくらいの参道です。

この道について、『日本の神々』に次のようにあります。

「この「参道」の延長線上には人の住む村も町もなく、二万五千分の一の地図の上で松並木の線を延長してみると、その線は伊豆半島にも御前崎にもぶつからず、両者のまんなかを太平洋にむかってぬけてゆく。その彼方は神の国「常世」であり、松並木は常世の国から神が来臨する「神の道」なのである」

常世の神が羽衣の松を依代として降臨、松並木(=神の道)を通って本殿に鎮座するという仕組だと、『日本歴史地名大系』は説明しています。

 

謡曲羽衣

いかに申し候。御姿を見奉れば、あまりに御いたはしく候ふほどの、衣を返し申さうずるにて候。

あらうれしや候。こなたへ賜り候へ。

しばらく候。承り及びたる天人の舞楽、ただいまここにて奏し給はば、衣を返し申すべし。

うれしやさては天上に帰らん事を得たり。この喜びにとてもさらば、人間の御遊の形見の舞、月宮を廻らす舞曲あり。ただいまここにて奏しつつ、世の憂き人に伝ふべしさりながら、衣なくてはかなふまじ。さりとてはまづ返し給へ

いやこの衣を返しなば、舞曲をなさでそのままに、天にや上り給ふべき。

いや疑ひは人間にあり、天に偽りなきものを。

あら恥かしやさらばとて、羽衣を返し与ふれば乙女は衣を着しつつ、霓裳羽衣の曲をなし、天の羽衣風に和し、雨に潤ふ花の袖、一曲を奏で舞ふとかや。

 

名勝三保松原の碑

境内

鳥居

 

社号標

 

古い扁額

 

手水舎

 

境内北西側の入口にある柱

元々は鳥居だったもの?

 

裏参道の鳥居

 

社号標

社殿

拝殿

 

扁額

 

本殿

境内社等

子安神社

 

子安神社

御祭神 須佐之男命 稲田姫命

御穂神社ご祭神である大国主命の父母にあたる神々であり古来より子宝・安産・子育ての神として信仰される

また昔から安産の祈願やお礼参りとして底を抜いた柄杓を奉納する風習があり、水がつかえず軽くぬける如くに楽なお産が出来ますようにとの願いが託されている

 

末社

左から磯前神社、呉服之神社、産霊神社、胡夫太夫神社、稲荷神社

 

末社

左から八雲神社、八幡神社、神明神社

 

神馬

 

神馬の由緒

元は木の馬であり、左甚五郎の作といわれ安永二年(一七七三年)駿府大火で、静岡浅間神社の二頭の神馬が、当社に逃げ一頭は残り一頭は戻ったと伝えられている。

明治四十五年北原白秋来清のとき詠まれたチャッキリ節に「賎や賎機浅間さまの白いお馬よ三保へお馬よなぜ逃げた」と唄われている。今も浅間さんには黒いお馬さんの馬屋と空屋の馬屋がある。

このように由緒ある神馬は古くから信仰され親しまれてきた。当社の十一月の例祭、二月の筒粥祭に子どものみお馬さんの腹の下をくぐり、お供えのお豆を食べると「かんしずめ」「はぎしり」「寝小便とめ」などの病気がなおると信仰されている。

現在、神馬のご神徳により、おせんげんさまの神馬と共に「なんでも叶う」叶え馬としてお守をうけて絵馬に願事をかき奉納し祈願する。願事が叶い感謝のお礼参りをする人が年々増えている。

 

舞殿

 

土俵

三保の松原

境内から神の道を通り南へ抜けると、三保の松原に出ます。

こちらは国の名勝に指定されており、日本新三景・日本三大松原の一つともされます。

また御穂神社・神の道も含めて、世界文化遺産「富士山ー信仰の対象と芸術の源泉」の構成資産の一つとなっています。

 

名勝 三保松原

霊峰富士の眺望、絶景をもって天下に識られているここ三保の松原は、遠く万葉歌人に詠歌され、また、日本の伝統芸術である能「羽衣」によって多くの人々に親しまれている名勝地である。

大正五年五月には、日本新三景のひとつに選ばれ記念碑が建っている。

四時緑たたえ、東遊の駿河舞を偲ばす。

また、欧州各地で「羽衣」を演じ、まだ見ぬ三保の松原にあこがれながら若くして逝ったフランスの舞姫ジュグラリスの碑などが観光客に美しい夢を抱かせる。

国指定名勝 大正十一年三月八日指定

 

謡曲「羽衣」と三保ノ松原

地上に舞い降りた天女が浜辺の松に懸け忘れた羽衣を漁夫白竜に拾われ、それを返してもらうために天人の舞を舞うという「羽衣」伝説は日本各地にありますが、駿河国三保ノ松原を舞台としたのが本曲です。そのときの舞が後世に伝わって東遊の駿河舞となったと言われております。

謡曲では、天女は漁夫から羽衣を返してもらい、愛鷹山や霊峰富士山を見おろし乍ら昇天してゆきます。そのさまは一幅の絵のようで、能の中でも、最も秀れた曲として、多くの人々に愛好されてきました。

 

三代目羽衣の松

 

三保の松原のシンボルとして長い間愛されてきた先代「羽衣の松」に代わりその後を引き継いだ「新・羽衣の松」

平成二十二年十月に数世紀ぶりの世代交代が行われました。

 

羽衣伝説

昔々、三保に伯良という漁師がおりました。ある日のこと、伯良が松の枝にかかっている美しい衣を見つけて持ち帰ろうとすると、天女が現れて言いました。「それは天人の羽衣です。どうかお返しください。」

ところが伯良は「天人の羽衣なら、お返しはできません。」と言いました。

すると天女は「その羽衣がないと天に帰ることができません。」と言って懇願しました。

伯良は天上の舞を舞うことを約束に羽衣を返しました。天女は喜んで三保の春景色の中、羽衣をまとって舞いながら、富士の山に沿って天に昇っていきました。

 

「羽衣の松」二世の松

 

「羽衣の松」二世の松

この松は平成九年二月に「羽衣の松」から穂木を採取し、接ぎ木による二世作りに成功したものです。伝説の松の遺伝子を含め未来へ残す二世の松です。

 

二代目羽衣の松

2010年に三代目に世代交代、立ち枯れが進み危険だったため、2013年にこの幹の部分を残し伐採されました。樹齢は650年を超えていたそうです。

なお初代は宝永4年(1707年)の富士山宝永噴火の際に海中に没したとされています。

二代目の時点で伝説の松とは別の木なので、二世の松の「伝説の松の遺伝子を~」という説明は違う気もするのですがいいのかしらん…

 

名勝三保の松原 羽衣の松

むかし天女が三保の松原の美しい景色に見とれて降りたとき衣を掛けておいたのがこの「羽衣の松」だと云い伝えられている。わが国の文学として名高い謡曲「羽衣」はこの松にちなむ、もっとも美しい物語りである。

 

羽車神社

御穂神社の別宮(離宮)。

『駿河記』は「志貴氏社記に云」(神部神社神官志貴昌澄が著した書、『駿河国三穂社記』か)として以下の内容を引用しています。

駿河国三穂社記(?)

社は本社を去ること南六町余、外浜の海畔にあり。此社古へは猶数十町隔しに、往年狂濤衝突し漸く汀渚を没してより、社地を退となり。土俗此を羽衣の松の旧跡といふ。按に是れ所謂羽車磯田の社にて、御穂大神の離宮也。今に至て毎年祭礼の時、本社の神幣を振り奉り、此地にて神祭をなし御饌物を奠る。羽車とは、旧事記に大己貴神乗天羽車大鷲而覔妻妾と。此大己貴命の駕給ふ神輿なり。鳥の羽翼あって翔るがごとし。猶又神代に船の名を鳥磐櫲樟船、天鳥船、天鳩船と云がごとし。今遷宮神幸の時、霊璽を乗せ奉るならひあるとなり。磯田の社と風土記にあれば、羽車磯田社と称して当社の離宮たりけるを、中葉より付会の説に、羽衣とばかり云習はせり。磯田とは、神代巻にはじめ大己貴命平国也。行到出雲国五十狭々之小汀。云云又五十田狭の小汀とあり。磯田は五十田狭之下略なり。イソザヽモ又訓通す。今出雲に稲佐と云処もあるか、古事記には伊那佐之小汀とあり。伊は五十なり那は田と通ず。或是大己貴命広矛を以て天皇の使に授け給ひし地なり。此羽車磯田も其地名を遷し託する自然の神慮乎と、云云。

 

また、『神名帳考証土代』の豊積神社項に「今羽衣社乎[神社啓蒙]三穂社與羽衣社不同今現社有焉三穂社在平林中羽衣社去平林数十歩在沙陵之下」とあります(神社啓蒙は白井宗因の書)。

羽車神社は羽衣社とも称されたことが『駿河志料』や『駿河記』にみえます。三穂社付近の羽衣社というと羽車神社くらいしか該当する社がなさそうですが、豊積神社を羽衣社にあてる説が『神名帳考証土代』以外には見当たらず、その根拠も不明。

 

再建之碑

当羽車神社御祭神は三穂津彦命(大国主命)三穂津姫命の二神を斎き奉るその昔彦神国土を天孫瓊々杵尊に譲り給ひて後みめ麗はしき姫神を大后と定め二神相携へて天の羽車に召され「三保の浦」に鎮坐せられ当社を離宮として設けられたる由古伝に伝ふ爾来特に縁結び歌舞音曲農耕海上安全大漁守護神として海内に尊崇せられ御神木として「羽衣の松」を現存す更に霊峯冨士の眺望は将に天下随一の景観にして近時その風光を賞する者踵接すと雖も当社殿は永く荒廃に任せられたり此の状を痛嘆せし氏子崇敬者有志は御神慮に副ひ奉るべくその再建を謀り大方江湖各位の絶大なる賛同を得て御造営の業終に遂ふ即ち御造営の次第を慎みて茲に誌す

 

羽車神社や羽衣の松がある一角

 

富士山

天気が悪くて上の方が雲で隠れていました。

 

海(駿河湾)

由緒

御穂神社(三保大明神)

静岡市清水区三保一〇七三番地鎮座

主祭神 大己貴命(大国主命 三穂津彦命) 三穂津姫命

祭典

例祭 十一月一日 湯立の神事

筒粥祭 二月十四日の夜より同十五日

由緒略記

創建の時は不明であるが、三保の中心に鎮座し三保大明神とも称せられ、駿河国の国魂の神、国土開発の神、海の神と崇められ古くから朝野の崇敬をあつめた。

景行天皇十年(諸神祭式)光仁天皇宝亀年間(類聚国史)等に奉献の事が見え延喜式内社である。

中世以降、武士の崇敬篤く、殊に徳川幕府は慶長年間に壮大な社殿群を造営寄進した寛文八年落雷のため焼失し現在の社殿は仮宮であるが信仰は三保の氏神様清水の総氏神様として親しまれ三保清水の文化発祥の地であると共に、祭神、お伊勢様「大国様」のご神徳により、お祭や正月など全国各地より多くの人々が参拝するご神木「羽衣の松」の名社である。

本殿は、静岡市の指定有形文化財です。

 

御穂神社(三保大明神)由緒

静岡市清水区三保一〇七三番地鎮座

主祭神 大己貴命(大国主命 三穂津彦命) 三穂津姫命

祭典

例祭 十一月一日 湯立の神事

筒粥祭 二月十四日の夜 同十五日

由緒略記

創建の時は不明であるが、千古の昔より、三保の中心に鎮座し、三保大明神とも称せられ、国土開発の神、海の神と崇められると共に天から天女が舞い降りた「羽衣伝説」ゆかりの社としても名高く朝野の崇敬をあつめた延喜式内社である。

中世以降、武士の崇敬篤く、殊に徳川幕府は慶長年間に壮大な社殿群を造営寄進したが、寛文八年落雷のため焼失し、今の社殿は、その後仮宮として建てられたもので、本殿は清水市指定有形文化財に指定されている。

信仰は三保の氏神様・清水・庵原の総氏神として親しまれ文化発祥の地である。祭神の神徳により、お祭や、正月など全国各地より多くの人々が参拝する「御神木羽衣の松」の名社です。

創建時期は不詳。

偽書とされる『惣国風土記』は「日本武尊奉勅供官幣」とします。同書は当社を国の三宮ともしています。

出雲国御穂埼(美保関)から遷座したという説もあるそうです。

 

日本三代実録 貞観7年(865)12月21日戊辰条に「駿河国従五位下御盧神従五位上」とみえる御盧神、同書 元慶3年(879)4月5日甲子条に「駿河国従五位上御廬神正五位下」とみえる御廬神、延喜式神名帳にみえる「駿河国廬原郡 御穂神社」はいずれも当社に比定されています。

 

往古は天神森(現在地からおおよそ二町=約200mのところという)に鎮座していたのが、大永2年(1522)に細川弾正忠孝範の兵火により焼失。

三保の松原駐車場の東に天神森公園という小さな公園があり、その近くに天神森神社という小社があるようなので(位置?ストリートビューでは確認できず)、古社地はその辺りでしょうか。現在地への遷座はおそらく大永2年の焼失後の再建時なのでしょうが、不明。

 

中世以降は武家の崇敬が篤く、慶長年間(1596~1615)には徳川家康が壮大な社殿群を造営寄進したといいます。しかし寛文8年(1668)落雷により焼失。

現社殿はその後仮宮として建てられ、そのまま現在に至ったもの。

『駿河志料』『明治神社誌料』によれば再興後の規模は「古制の十分が一」だそうで、事実なら焼失以前はかなりの大社だったと思われます。

 

明治6年郷社に、同31年県社に列格(『明治神社誌料』『静岡県神社志』による。『式内社調査報告』は、列格をそれぞれ明治8年、39年としますが…)。

 

祭神は大己貴命(三穂津彦命)、三穂津姫命。

特に異説はないようです(『大日本地名辞書』は「御穂津彦は即建御名方命、一名三保須々美命に同じと曰へり」といっていますが)。

御朱印

御朱印はあります。

社務所で拝受可。書置きのみのようです。

アクセス

まず駒越東町交差点(位置)まで行きます。

2kmほど先の三保松原入口交差点(位置)で右折。

250mほど先の十字路を左折。そこから200mほどで鳥居前。

鳥居のすぐ横(東側)に駐車場があります。

 

三保の松原も見るなら松原近くの羽衣公園駐車場に停めたほうがいいかも。

上述の鳥居前で右折し、神の道沿いにしばし進むと左手に駐車場があります(位置)。

無料で24時間駐車可能と素晴らしいのですが、休日は混雑します。

神社概要

社名御穂神社(みほじんじゃ)
通称
旧称

三穂大明神

三保大明神

住所静岡県静岡市清水区三保1073
祭神

大己貴命(三穂津彦命)

三穂津姫命

社格等

式内社 駿河国廬原郡 御穂神社

日本三代実録 貞観七年十二月廿一日戊辰 御盧神 従五位上

日本三代実録 元慶三年四月五日甲子 御廬神 正五位下

駿河国三宮

旧県社

札所等
御朱印あり
御朱印帳
駐車場あり
公式Webサイト
備考大永二年以前は天神森に鎮座

参考文献

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