豊積神社(静岡市清水区由比町屋原)

豊積神社。

清水区由比町屋原に鎮座。

式内社 豊積神社の論社で、駿河国二宮ともいわれる神社。

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境内

県道370号沿いに幟立石と社号標が立っています

 

社号標

 

「静岡県指定無形文化財 お太鼓祭」の標柱

 

静岡県指定無形文化財 お太鼓祭り

桓武天皇は延暦十六年春征夷大将軍坂上田村麻呂に蝦夷征伐を命じた

将軍はその砌に当社に立寄り戦勝祈願した 戦に利ありて帰途再び社参しその戦勝祝いに奏上した神楽がお太鼓祭りの起源とされている

例年元旦より三日早朝にかけて行われる

昔より東海の奇祭として有名

平成九年正月には千二百回祈念祭を行った

戦前はラジオ戦後は新聞テレビ等で度々報道されている

 

100mほどで社頭

 

一の鳥居

 

二の鳥居

 

太鼓のオブジェ

 

お太鼓祭りの由来

往古白鳳年間の創建と伝えられる町屋原区式内豊積神社で行われるお祭りで、由来は古く延暦年間征夷大将軍坂上田村麻呂が奥州征伐の戦勝凱旋祝として奉納された祭りに始まる。

毎年正月元日より三日間青年たちによって大太鼓が担ぎ出されお太鼓の歌に合わせて区内をねり歩く伝統のこの祭典は県無形民俗文化財として指定されている

「年に一度の祭りにゃおいで 生まれ故郷のお太鼓に」

 

三の鳥居

 

井戸

 

手水舎

 

狛犬

社殿

拝殿

 

扁額

 

本殿

 

豊積神社本殿

本殿は総欅銅板葺流造りで延喜式内社にふさわしい古式な風格を備えています。棟には内削ぎの置千木と鰹木を備え、均整のとれた建築です。

造営の記録は、棟札によれば慶長五年(一六〇〇)に建造、享保十七年(一七三二)に北田村の大工松野藤四郎によって建て替えられ、現在の建物は社伝によれば文政八年(一八二五)に駿府町奉行社寺係の計らいで、現伊豆市土肥の宮大工砂間仙蔵父子と地元大工による建築です。

屋根は明治二十二年(一八八九)に静岡市鷹匠の銅工藤田惣七等により桧皮葺から銅板に葺き替えられました。

昭和二十八年(1953)に台風による損傷の大修理を行い現在に至っています。

 

本殿前の狛犬

境内社等

本殿左手に末社五社

左から磯前神社、稲荷神社、須賀神社、日枝神社、山宮神社

 

末社名・祭神・御神徳の表

 

末社の狛犬

 

本殿右の祠

 

本殿後ろに参道が伸びており奥に社があります

 

奥に白髭神社

 

その後ろに天然記念物の樟

 

樹高27メートル、目通り2メートル、推定樹齢400年、だそうです

 

拝殿右手前に大イチョウ(雄木)

 

樹高27メートル、幹周囲9.1メートル、だそうです

 

町指定文化財

大いちょう(雄木)

樹高二十七米 太さ目通り三、六米 桃源寺雌木と共に夫婦いちょうと呼んでいる

豊積神社お太鼓祭り

延喜式内社豊積神社祭典(毎年一月一日より三日間) 延暦十六年坂上田村麻呂の東夷征伐の際この地で戦捷祝賀が催されたことに由来するといわれ歌詞歌曲とも独特のものである

豊積神社本殿

総欅流れ造り銅板葺き 延喜式内社の古式な風格を備えた社殿

検地帳(由比郷御縄打水帳)

天正十七年(千五百八十九年)己丑八月七日日附の徳川家康によって行われた駿河領内の数少ない検地帳である

 

参集殿

由緒

豊積神社由来

延喜式神名帳に「駿河国廬原郡豊積社」とあり、ここの地を町屋原と称するは、古代において物々交換の市場が営まれたところで社伝によれば第四十代天武天皇の白鳳年間ここに五穀の神「豊受姫」を祀る豊積神社が創建されたと伝えている。

平安時代に入り木花開耶姫を祀る浅間信仰が広く流布され、延暦十年(七九一)神主の夢想神託により木花開耶姫を祭神とし、豊受姫は稲荷社として境内社に遷宮された。

延暦十六年、坂上田村麿が東征の途上、豊積神社に戦勝を祈願し、その帰路戦捷報告に立寄ったのが旧正月一日とあって、ここに戦勝祝賀の宴が盛大に催され、大太鼓をくり出し三日二晩夜を徹して町内をねり歩いた、これが今に伝えられるお太鼓祭りの起源とされている。

境内由緒書によれば白鳳年間(661~683あるいは672~685)、物々交換の市場が営まれた当地・町屋原に、五穀の神豊受姫を祀る神社として創建。

その後浅間信仰が広まると、平安時代の延暦10年(791)、神主の夢想神託により木花開耶姫が祭神とされ、豊受姫は稲荷社として境内社に遷されたといいます。

これに対し、『日本歴史地名大系』『平成祭データ』『静岡県神社志』は延暦10年創建とし、祭神の変遷については触れていません。

延暦16年(797)、坂上田村麻呂が東征の途上で当社に戦勝を祈願、その帰路には戦勝祝いとして神楽を奉納したとされ、これが現在も行われているお太鼓祭(県指定無形民俗文化財)の起源だとされています。

 

延喜式神名帳にみえる「駿河国廬原郡 豊積神社」に当社をあてる説があります。

『特選神名牒』は「元禄の頃の当社遷宮の祝詞に豊積大明神また豊積浅間大神などと見えたれば」として当社説をとっています。

 

『惣国風土記』に「豊積神社或止由気神社日本武尊祭之地也国中之二宮也」とあり、そこから当社は駿河国二宮ともいわれます(ただし国立公文書館デジタルアーカイブで公開されている複数の写本を見るとそれぞれ表記が違います…)。

 

中世~近世には浅間社の力が強く及んでいたようで、神事には富士・国府浅間社の社人が勤め、浅間社と称していました(『式内社調査報告』は「浅間神社”とのみ”称し」、『日本歴史地名大系』は「浅間”とも”称し」とニュアンスが異なり、豊積の名が全く消えていた時期があるのかは謎)。

 

明治6年郷社列格。

 

現祭神は木花之佐久夜比売命。

 

『駿河志料』は木花開耶姫命と御母神を祭神とします。

御母神について同書は「当社の社記に、祭神御母神とありて、御名を記さず、想ふに国府の宮の山宮を、里人は御母神と云へり、大山祇命に坐せり、書紀瓊々杵命木花開耶姫命に問ひ給ひし条に対曰妾是天神娶大山祇神所生兒也とみえたり国府山宮の神、御衣は女神の御料なり如此あれば、当社に御母神と称するも、大山祇神にて、未日の祭は御母神の祭ならん」と、大山祇命のことだとします。

上記引用されている日本書紀の記述は大山祇命が女神であるように読め、実際にそういう説もあるそうなので、『駿河志料』はその見方で論じているのだと思われます(国府山宮とは静岡浅間神社境内社の麓山神社を指す…と思います)。

当社名の「豊積」は、木花開耶姫の別名豊吾田津姫の豊と大山祇命の祇(積)を合わせたものとする説もあるとか。

 

『式内社調査報告』は上記祭神二座説について「式内社である豊積神社に後世、浅間神社の勢力が強くなるによって、ここに相殿となったことに由来する」とし、元の豊積神社の祭神を(本来何神か不明だが)御母神としたのだろう、と説明します。

しかしこの説明の根拠は不明。境内由緒書に豊受姫を祭る豊積神社として創建されたが後に木花開耶姫が主神に変わった、ということが「社伝によれば」として記されているので、何らかそういう社伝があるのだろうとは思いますが。

御朱印

御朱印はあります。

拝殿の賽銭箱脇に書置きが用意されています。

アクセス

富士由比バイパスを寺尾IC(位置)か蒲原西IC(位置)で降りて県道369号で町屋原の方へ。

どちらからでも大体2kmくらい。歩道橋のある辺りが神社裏手。

駐車場はありません。

神社概要

社名豊積神社(とよづみ/とよすみじんじゃ)
通称
旧称

豊積浅間社

住所静岡県静岡市清水区由比町屋原185
祭神木花之佐久夜比売命
相殿(?)御母神(大山祇命?)
社格等

式内社 駿河国廬原郡 豊積神社

駿河国二宮

旧郷社

札所等
御朱印あり
御朱印帳
駐車場なし
公式Webサイト
備考

参考文献

  • 「豊積神社」, 『日本歴史地名大系』(データベース「JapanKnowledge」)
  • 「豊積神社」, 神社本庁教学研究所研究室編『平成「祭」データ(CD-ROM)』全国神社祭祀祭礼総合調査本庁委員会, 1995
  • 教部省編『特選神名牒』磯部甲陽堂, 1925(国会図書館デジタルコレクション 185コマ
  • 式内社研究会編『式内社調査報告 第九巻 東海道4』皇學館大学出版部, 1988
  • 静岡県郷土研究協会『静岡県神社志』静岡県郷土研究協会, 1941
  • 中村高平『駿河志料 第3編』静岡郷土研究会, 1930, p.170-171(国会図書館デジタルコレクション 177コマ
  • 明治神社誌料編纂所編『明治神社誌料』明治神社誌料編纂所, 1912(国会図書館デジタルコレクション 908,909コマ
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