倭神社。
大津市滋賀里、赤塚という古墳上に鎮座。
式内社 倭神社の論社。
境内
社頭
鳥居
扁額
手水鉢?
社殿
覆屋
社殿
境内社等
社殿横の祠
社務所
クスノキ
この樹木は、いつまでも「まちにみどりを」という願いから指定された保護樹木です。
樹高約二十三.九米 樹齢約二百五十年(推定)
ケヤキ
この樹木は、いつまでも「まちにみどりを」という願いから指定された保護樹木です。
樹高約二十三米 樹齢約四百年(推定)
由緒
倭神社は、大津市滋賀里三丁目字天塚に所在し、京阪電鉄滋賀里駅の北方約五〇〇mの小丘上に位置する。祭神は、天智天皇の皇后である倭姫と伝えるが、おそらくこの小丘上の本殿の改築の際、朱の痕跡が認められる花崗岩の板石が五~六枚発見されたことなどから古墳と考えられ、その被葬者が倭姫だとする伝承によるものであろう。
江戸時代の記録によると、天正十九年(一五九一)及び宝永七年(一七一〇)に赤塚大明神として再興されたという。
現在、墳頂には南向きの一間社流造りの簡素な本殿が建ち、本殿へいたる参道の石段付近の東側にクスノキ、西側にケヤキの巨木がみられ、それらは昭和五十一年(一九七六)十二月一日付けで大津市保護樹木に指定されている。
また、この古墳は「赤塚古墳」と命名され、地籍図等の復原による東向きの前方後円墳か、もしくは近年の測量調査による直径三〇~四〇m、高さ二.五~四.〇mを測子円墳と思われ、築造年代は古墳時代中期の五世紀前半頃と推定されている。
この神社は、通称「赤塚の明神さん」の名で滋賀里地区全域の住民に親しまれており、御例大祭は九月二十三日で、宵宮祭には江州音頭による踊りが平成八年まで催されていましたが、現在は行われていません。
<年中行事>
一月一日 午前十一時 歳旦祭
二月十一日 午前十一時 紀元祭
七月十六日 午前三時 神湯祭
九月二十三日 午前十時 御例大祭
十二月二十三日 午後三時 火焚祭
創建時期は不詳。
鎮座地の小丘は古墳と考えられています(境内由緒書には前方後円墳か円墳とありますが、『式内社調査報告』は遠方後円墳と断定し、後円部の頂上を削平して社地を営んでいるとする)。
「赤塚」の由来はおそらく、朱の痕跡が認められる花崗岩の板石が見つかったことによるのでしょう。
この古墳の被葬者が倭姫(天智天皇皇后)であるとする伝承があり、そのためか倭姫皇后を当社の祭神とする説があります。
延喜式神名帳にみえる「近江国滋賀郡 倭神社」を当社にあてる説があります。
その後の由緒は不詳ですが、天正19年(1591)及び宝永7年(1710)に赤塚大明神として再興されたという記録があるそうです(それまでに衰微または廃絶していたか)。
明治期の社格は不明(手元の資料に記載なし)。
現在は同じ滋賀里に鎮座する志賀八幡神社(位置)の兼務社となっています。
なお、同じく式内倭神社の論社となっている坂本の倭神社の社名読みが「やまと」なのに対し、当社の読みは「しどり」となっています。
御朱印
御朱印の有無は不明。
アクセス
三井寺のあたりから県道47号を北上し、京阪の滋賀里駅の少し先、滋賀里四丁目交差点(位置)を左手に入るとすぐに神社があります。
駐車場はありません。
神社概要
社名 | 倭神社(しどりじんじゃ) |
---|---|
通称 | 赤塚の明神さん |
旧称 | 赤塚大明神 |
住所 | 滋賀県大津市滋賀里3-223 |
祭神 | 不詳 (伝倭姫皇后) |
社格等 | 式内社 近江国滋賀郡 倭神社 旧社格不明 |
札所等 | – |
御朱印 | 不明 |
御朱印帳 | – |
駐車場 | なし |
公式Webサイト | – |
備考 | 社地は古墳 |
参考文献
- 「倭神社」, 神社本庁教学研究所研究室編『平成「祭」データ(CD-ROM)』全国神社祭祀祭礼総合調査本庁委員会, 1995
- 式内社研究会編『式内社調査報告 第十二巻 東山道1』皇學館大学出版部, 1981