諭鶴羽神社(南あわじ市灘黒岩)

諭鶴羽神社。

淡路島の最高峰、諭鶴羽山の山頂付近に鎮座。

熊野権現元宮、熊野本宮とも称され、修験道の霊場として栄えた歴史を持つ神社。

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境内

社頭

 

鳥居

 

社号標

 

手水舎

 

御神水

この手水に使用している水は諭鶴羽山山頂近くから湧き出した清水をそのまま使用しています

諭鶴羽山を源流とする川からの水をたくさんの池やダムが貯え人々の暮らしや農業を支えています(生水ですので飲まないで下さい)

 

燈籠

 

説明板

この石灯籠は、もと、諭鶴羽古道の裏参道浦壁二十八町付近にあった。昭和四十九年諭鶴羽ダム建設と同時にダム管理事務所前に移設され、平成十六年ダム改修工事の際、石灯籠設置場所について協議、永代に供養保存のため、この場所への移設を決めた。

向かって右

表面 諭鶴羽大権現

裏面 別當地蔵寺(現黒岩神仙寺内)

   現住 英賢(当時の住職名)

向かって左

表面 諭鶴羽大権現

裏面 文政二年己卯六月十三日(1819年)

神社へ参拝する人の道中の安全、江戸時代後期の動乱の頃国家安寧を祈願するため建立された。

 

狛犬

 

狛犬

 

狛犬

 

淡州 元熊野宮諭鶴羽宮の碑

社殿

拝殿

 

扁額

 

本殿

境内社等

水神社

 

水神社

御祭神 彌都波能賣命(水神) 水を主宰される神

年間を通して霧がよく発生し、降水量の多い諭鶴羽山は、古くから水源守護の神として下流域に暮らす人々から信仰を集めてきました。水は、飲み水や生活用水としてはもちろんのこと、田植えや農作物の生育にも欠かすことのできない”命”そのものといえます。

毎年、六月下旬頃より田植えの無事終了と豊作祈願のため、三原平野各地からの「毛付け」参りもこうした信仰によるものです。

 

厳島神社

 

厳島神社

御祭神 厳島媛命 海上安全、航海守護の神

弁天さんで知られる厳島神社は、もと広島県の宮島でおまつりされており、やがて、平家一族の守護神として、又海上安全、航海守護の神として崇敬されるようになりました。海上からよく見える諭鶴羽山は、沖行く船や、漁をする船の灯台の役目をはたしながら船乗りたちの信仰を集めまつられるようになりました。又、古くは、灘海岸には平家一族が辿り着いたとも伝えられています。

 

親子杉

 

親子杉

神は自然にやどり給う悠久に変わる事無き大自然のいとなみに神のみ心がある霊気みち満つ諭鶴羽山の自然林聖なる霊宿る「親子杉」幸魂奇魂守り給へ幸へ給へ

 

建武銘「二町目町石」

建武銘「二町目町石」

この町石は、神社々叢林東側で平成13年秋偶然発見した。

永代お祀り保存のため、供養ののち平成13年12月25日堀り起こしこの場所にお遷しした。

動乱の時代の建武の頃、大日如来に平和と安寧を祈願してたてられたものと推測される。

 

町石の横、祀られていると思しき石

左の小さい石の上部に梵字らしき字が刻まれているものの他は判読できず

 

奥宮十二所神社

日没寸前+木々に覆われて暗い+雨でブレブレ

 

十二所神社社号標

 

十二所神社狛犬

 

十二所神社

 

由緒碑を撮ったはいいものの、暗くて読めず

 

諭鶴羽大権現と彫られた祠

 

多宝塔影板碑・宝剣板碑群二十八基

 

町石

 

説明板

この町石は動乱の建武の頃、平和と国家安寧祈願のため、僧、行範らの寄進により諭鶴羽古道(裏参道)に建立された一部である。

平安鎌倉から室町の頃の「ゆづるは参り」の賑わいを語る重要な遺品でもあり、昭和五十年春、発掘、永代供養保存のためここに遷し奉る。

 

奥の院篠山神社

山頂方面に登っていく途中にあります。元はここに諭鶴羽神社があったようです。

奥の院(篠山神社)と奥宮(十二所神社)が別にあるのは面白いですね。

 

篠山神社の狛犬

 

篠山神社社号標

 

何らかの石碑…

 

篠山神社から少し登ると諭鶴羽山山頂です

 

山頂標

 

諭鶴羽山のアカガシ群落

諭鶴羽山の標高四五〇メートルより上方に広がるアカガシ群落は、県下一の面積を誇り、大きいものでは樹齢約三〇〇年、樹高二三メートル、根回り三メートルほどもあります。

この群落は、優占種であるアカガシのほか、スダジイ、タブノキ、カクレミノなど九〇種あまりの樹木を交えて茂っており、まさに「植物の宝庫」です。

その貴重さから、昭和四九年に県の天然記念物に指定されています。

 

一等三角点 諭鶴羽山

北緯 34度 14分 05秒 5124

東経 134度 48分 51秒 0784

標高 607.95メートル(H.26.3.13値)

設置年 明治20年(西暦1887年)

ここに設置されている標石は、「三角点」です。「三角点」は地球上の位置(緯度・経度・標高)が高い精度で求められており、地図作りや地震調査研究をはじめ、いろいろな測量の基礎となる重要なものです。三角点を大切にしましょう。

 

三角点

 

御旅所

 

頂上社

 

杠山荘

 

天の浮橋遥拝所

 

沼島がよく見えます

 

天の浮橋遥拝所

当社所蔵の諭鶴羽山縁起には、神代の昔、国をうまれたイザナギ、イザナミ、二柱の神様が鶴の羽に乗られ遊ばれ、この山に舞い降りられたと伝えられています。

東に紀州の山並み、友ヶ島。

眼下に太平洋へと続く紀伊水道。

そして、

くにうみ神話の伝わる沼島。

遥か、昔の人々もこの諭鶴羽山から眺める雄大な景色に、国生み神話を思い馳せたのでしょう。

 

大日堂

 

大日堂建立の由縁

この大日堂にお祀りされていますのは、

胎蔵界大日如来と

金剛界大日如来です。

お母さんのお腹をイメージした蓮の蕾の中に秘仏として納められています。

諭鶴羽山は修験の山でもありましたが、約五百年前の戦乱の頃に2回にもわたる焼き討ちにあい衰微し、明治初年の神仏分離、修験道廃止令などをうけて諭鶴羽修験はことごとく消滅しました。

大阪堺在住の修験者、山田智泉氏、諭鶴羽山の修験道復興を願い一人諭鶴羽山中で三十数年護摩法要修行を続けられここに満願成就平成二十年三月三十日仲間の修験の方々からの寄進も頂いて大日堂を建立、逗子中央に宝刀を入刀し大法要を行い大日如来を開眼しました。

奉納

大先達 山田智泉

大日会

参詣者多数

大日如来像は、勢山社(滋賀県)渡邊勢山・戴方 両氏が造顕されました。

 

神樹 ゆずりは木

 

観音堂柱石

観音堂柱石

むかし、江戸期、このところに諭鶴羽山神仙寺観音堂があったが明治維新の神仏分離令により地元山下の黒岩地蔵寺跡に移転された。

この石はその観音堂の柱石である。

由緒

神恩の山 ゆづるはさん 元熊野宮諭鶴羽宮 諭鶴羽神社ご案内

一、ご祭神

「国生み神話」で知られた、伊弉冊尊さまを主神にその御子、速玉之男命、事解之男命の三柱の神様をお祀りしてある。

神代の昔、夫神の伊弉諾尊さまと共に、はじめて夫婦の道をひらき給い、日本の国土を修理固成され、多くの神々を生み給うた「母なる神様」である。古来、五穀豊穣、水源守護の神であり、淡路の産業の振興の神様として、また縁結び安産、夫婦和合家内安全の神様として広く崇敬され、源平の昔からお宮の灯りは燈台がわり、海陸交通安全の神様である。

一、ご由緒

社伝によると、およそ二千年の昔第九代開化天皇の御代にイザナギ、イザナミの二柱の神様が鶴の羽に乗りたまい、高天原に遊びたもうた。狩人が鶴の舞い遊ぶのを見て、矢を放つ。羽に矢を負った鶴は、そのまま東の方の峰に飛んでかくれた。狩人その跡を負って頂上に至るとカヤの大樹があり、その梢にかたじけなくも日光月光と示現したまい

「我は、イザナギ、イザナミである。国家安全・五穀豊穣成就を守るためこの山に留るなり、これよりは諭鶴羽権現と号す。」

と唱えたもうた。狩人、涙を流し前非を悔い、その罪を謝し奉り、弓矢を捨てその地を清め大工を招き一社を建て神体を勧請し奉る。狩人、権現の社を受領して庄司太夫と号し一生神に仕えたりという。

また別に昔、西天竺の霊神が第十代崇神天皇の御代に五つの剣を東に向かって投げられ「我が縁のある地留れ」と誓いたもうた。

一は、紀伊国室の郡に(熊野三山のこと)

一は、下野国日光山に

一は、出羽国羽黒山に

一は、豊前国彦山に、そして

一は、淡路国諭鶴羽山に留ったと伝えられる。

また熊野権現御垂迹縁起によるとその昔、

甲寅の年、唐の天台山の霊神が九州筑紫国、英彦山の峰にご降臨され、

戊午の年、伊予国、石槌の峰に渡られ、

甲子の年、淡路国、諭鶴羽の峰に渡られた後、

庚午の年、熊野新宮、神蔵の峰に渡られた云々…と伝えられる。

ともあれ、その創建は遠い昔のことであり、自然崇拝、山岳信仰に始まり平安時代に修験道が盛んになるにつれ、この山も前期の山々と共に神仏習合体としておおいに繁盛、山上一帯に二十八宇の大伽藍を建て、熊野権現と並んで修験の霊場として栄え熊野権現元宮、熊野本宮と称えられた。

その、ご神威は京の貴族社会にまで知られていた


峰は、ゆづるはの峰

あみだの峰

いや高の峰

(枕草子 清少納言)


惜しいことには、五百余年前(康正二年)戦乱のため兵火にかかり全山焼亡。天文年間に至り美作城主(岡山県)の助力を得て十八宇を再興したが又々、天文十八年六月九日兵火にかかり(石川紀伊守の乱)焼亡衰微した。乱世にあってはもはや再興の望みなきにより、のちの平和な世に望みをたくして、美作住人乗蔵らが再興祈願および再興の資料として各社堂、神仏を碑石に刻して後世に残したるものが奥宮、十二所神社に安置してある天文二十一年銘の碑石群である。

天正九年十一月二十一日豊臣秀吉当社に参拝し、承應年間に藩主蜂須賀公が平病祈願、徳島城鬼門鎮護のため、本殿、拝殿末社二社を再建された。又、本殿横西側に、神仙寺観音堂も合わせまつられていたが明治初年の神仏分離令で山下の黒岩に遷された。

一、社境

諭鶴羽山は標高608m南側に灘海岸、北側に三原平野を望む淡路最高峰。当社はこの山頂付近一帯を境域とし面積1万7千㎡山頂御旅所は大阪湾、瀬戸内海、紀伊水道、眼下には沼島、そして泉、摂、播、賛、阿、淡、紀、備を一望でき八州展望台と呼ばれる。南側斜面に位置する当社境内地は、ご来迎を拝む適地であり正月、多くの参拝者でにぎわう。又、淡路では正月、高山で餅を焼いて食べると一年間無病息災という言い伝えがあり、諭鶴羽山はその代表格である。

又、当社は瀬戸内海国立公園内にあり境内神域は特別地域。原生林のアカガシ群落がアカガシの極相林として県下最大規模であることから天然記念物に指定され、他の動植物と共に自然の宝庫であると評されている。灘黒岩から十八丁、神代浦壁から(現在は諭鶴羽ダムから)三十丁のお地蔵さんが迎えてくれる諭鶴羽古道を好んで訪れる登山者も多く、この古道から発掘された建武元年銘の町石は在銘町石としては兵庫県下最古のものである。

又、昭和五十八年、境内西の高地にさきの大戦で亡くなられた戦没者を慰霊し、平和な世界の維持確立、人類の共存共栄を祈念するため多くの協賛を戴いて平和祈念塔を建立した。

社伝(諭鶴羽山縁起)によれば創建は開化天皇の御代(BC157~BC98)。

イザナギ・イザナミの二神が鶴の羽に乗り、この山で舞い遊んでいた折、狩人が鶴に矢を射ってしまいます。東の峰に隠れた鶴を狩人が追うと、鶴はカヤの大樹に日光月光と示現し「我は、イザナギ、イザナミである。国家安全・五穀豊穣成就を守るためこの山に留るなり、これよりは諭鶴羽権現と号す。」と唱えたので、狩人は罪を悔い、弓矢を捨てその地を清め、大工を招き一社を建て神体を勧請し祀った、というのが創祀。

 

別の伝承(諭鶴羽大権現其外所々縁起)では、神武天皇25年(BC636)に諭鶴羽大権現はインドのマガダ国から鶴の羽車に乗って諭鶴羽の峰に遷座し、戊午58年(BC603?)紀伊国藤白、崇神天皇己亥16年(BC82年)紀伊国熊野本宮に移り、欽明天皇31年(570)豊前国英彦山に臨幸、推古天皇元年(593)出羽国羽黒山に、霊亀2年(716)熊野那智山に移り、その後(年月不明)越中国立山に移ったとも。

 

また、『熊野権現御垂迹縁起伝』によれば、甲寅の年、唐の天台山の霊神が筑紫国英彦山の峰に降臨、戊午の年、伊予国石槌の峰に、甲子の年、淡路国諭鶴羽の峰に渡り、庚午の年、熊野新宮神蔵の峰に渡ったとされます。

さらに由緒書によると、西天竺の霊神が崇神天皇の御代に『我が縁のある地に留まれ』と5つの剣を東に向かって投げると、紀伊国熊野三山、下野国日光山、出羽国羽黒山、豊前国英彦山、淡路国諭鶴羽山に留まったとする伝えもあるようです。

 

修験道が盛んになると、当地はその一大霊場として繁栄、28宇の大伽藍が立ち並び熊野権現元宮、熊野本宮、熊野権現奥之院とも称されました。縁起に現れる地はいずれも山岳信仰・修験道の霊地であり、この頃に数々の伝承が成立したものと思われます。

 

康正2年(1456)に戦乱の兵火に罹り全山焼失。

天文年間(1532~55)に美作城主の助力を得て18宇を再建するも、天文18年(1549)再度兵火で焼失。

再興の望みがなくなったため、美作住人乗蔵らが後の世に望みを託し、再興祈願及び再興の資料として各社堂、神仏を碑石に刻しており、これが奥宮十二所神社に残る天文二十一年銘の碑石群。

 

承応年間(1652~54)に阿波藩主蜂須賀公が平癒祈願、徳島城鬼門鎮護のため、本殿、拝殿、末社二社を再建。

 

明治4年あるいは6年、郷社列格。

最近は名前のつながりでフィギュアスケートの羽生結弦選手のファンの中で聖地となっているらしく、本人も参拝されたのだとか。

御朱印

御朱印はあります。

社務所で拝受可。

場所が場所なので宮司さんは常駐されていないようですが、書置きもあります。

デザイン自体は汎用のものと思われますが、社名入りの御朱印帳があります

神社公式サイトの頒布品ページに画像が掲載されています。

アクセス

※注意※

当社へは車で上ることができますが、道が非常に狭く危険です。運転に不慣れな方は進退極まったり、最悪事故る可能性もあります。

運転に自信のない方向けに、宮司さんが送迎対応をして下さっているそうです。送迎可能日は神社公式サイトの道路状況・送迎案内のページに出ているので、事前に連絡を入れるといいと思います(掲載日でも不可、非掲載日でも可能なこともあるそう)。

公式サイトには道路状況も掲載されているので、車で登るつもりの方も見ておくとよいでしょう。


 

南あわじ市、洲本市いずれかから県道76号を南下。海岸線に出たら、土生港の東にある灘山本交差点(位置)を目指します。

灘山本交差点から北西方向に入り県道535号へ。

750mほど先(位置)で右折。

 

最後の民家の前を過ぎ、山の中に入ると恐ろしく狭い道になります。

特に中腹あたりは離合ポイントもほとんどなく、道はうねうねでガードレールもほぼありません。路肩が怪しいところもあり、無論落ちたら死にます。路上に枝や落石もあり、鹿も出ます。

幸い通行量はないに等しいのですが、万一対向車が来たら普通に走るのもしんどい道を鬼バックする羽目に。麓や神社付近なら多少道幅あるのでどうにかなるのですが…(実際私の参拝時も神社手前で対向車が来ましたが余裕でした)

 

他に、北麓の上田ダムあたりから上田林道で登ることもできます。県道と比べて傾斜は緩やかですが、未舗装区間があります。緩やかな分距離も長いです。こちらは走っていないので、道幅は不明。

 

歩きの場合は、諭鶴羽古道という登山道があります。

表参道は灘黒岩の黒岩バス停あたりから北に登っていくと案内が出ています(登山口)。約2kmですがかなり急坂のようです。バス停の近くに鳥居があるのですが(位置)、諭鶴羽神社の一の鳥居でしょうか。

裏参道は諭鶴羽ダムの西側の階段(位置)から。こちらは緩やかで歩きやすいようです。途中に神倉神社という摂社があります。

神社概要

社名諭鶴羽神社(ゆづるはじんじゃ)
通称
旧称

諭鶴羽権現

熊野権現元宮

熊野本宮

住所兵庫県南あわじ市灘黒岩472
祭神

伊弉冉尊

速玉男命

事解男命

社格等旧郷社
札所等
御朱印あり
御朱印帳あり(汎用デザイン、社名入り)
駐車場あり
公式Webサイトhttps://yuzuruha.jimdo.com/
備考

参考文献

  • 「諭鶴羽山・諭鶴羽神社」, 『日本歴史地名大系』(データベース「JapanKnowledge」)
  • 「諭鶴羽神社」, 神社本庁教学研究所研究室編『平成「祭」データ(CD-ROM)』全国神社祭祀祭礼総合調査本庁委員会, 1995
  • 谷川健一編『日本の神々 神社と聖地 第三巻 摂津・河内・和泉・淡路』白水社, 1984
  • 明治神社誌料編纂所編『府県郷社明治神社誌料 上巻』明治神社誌料編纂所, 1912(国会図書館デジタルコレクション 401コマ