金持神社。
日野町金持に鎮座。金運・開運祈願と、縁起のいい名前で有名な神社。
読みは「かねもち」ではなく「かもち」。
境内
国道沿い、札所右手の橋
ここを渡った奥が境内。
橋を渡ると参道入り口の案内標
金持神社は、天之常立命・八束水臣津努命・淤美豆奴命を祭る。創立年代は不祥であるが、棟札に寛文9年以後のものがある。元弘の頃、後醍醐天皇の船上山遷幸の折り、金持景藤が名和長年らと義兵を挙げ、聖運の隆昌を当社に祈願し神前の戸張を御旗にしたとも伝えられる。
参道入口の手水舎
鳥居
狛犬
チャンチン(香椿)
樹齢600年位。とっとりの名木100選のひとつ。県内ではチャンチンはこの一本しか確認されていないのだとか。
石段
サワラ(椹)
樹齢600年位。こちらもとっとりの名木100選のひとつ。神社の遷宮の際に屋根のコワ材として利用するために植えられたものと考えられているとのこと。
石段途中にお狐さん
石段上のスマートな狛犬
社殿
拝殿
拝殿の龍の彫刻
本殿
由緒
日本で一番縁起の良い名前の神社(鳥取県日野町)
金持神社
御祭神
天之常立尊、八束水臣津努命、淤美豆奴命
天常立尊を御祭神とする全国でも数少ない神社。国土経営、開運、国造りの神様をお祀りしています。
由来
八一〇年出雲の神官の次男が、伊勢神宮参拝のためこの地を通りかかったところ、お守りとして身につけていた神前の目付の玉石が急に重くなりました。そして、この地に宮造りするよう神夢があったので、宮造りしたと伝えられています。
境内の銘木
金持神社境内には、鳥取県銘木一〇〇選中、サワラ、チャンチンの二本があり樹齢六百年位と云われています。サワラは神社の遷宮の際に屋根のコワ材として利用するために植えられたものと考えられています。チャンチンはセンダン科の薬木で、果実は目薬に用い、先人が鉄生産の予防薬として、中国より取り寄せたものと考えられています。県内では、このチャンチンの木、1本しか確認されていません。
金持姓のルーツ
日本で一番景気の良い名字の「金持」。その金持姓のもとになった地名がこの地です。歴史は古く鎌倉幕府御家人、金持広親は一二〇五年から守護職として、この伯耆の国を治め、鉄器製造が盛んである地域にふさわしく、国宝・太刀「童子切安綱」で知られる日本最古の刀匠、伯耆安綱を輩出しています。「吾妻鏡」などにも記載のある由緒のある名字の「金持」。全国の「金持さん」、自分のルーツを探しにぜひこの地へ。
「金持景藤公が必勝祈願」
この地の豪族、金持景藤は、一三三三年、隠岐を脱出された後醍醐天皇を奉じて討幕の軍に参加し大活躍しました。その際、金持神社に必勝祈願し、神前の戸張を御旗にしたと伝えられています。京都への遷幸の折には、天皇の右側に名和長年公・左側が金持景藤公で、「錦の御旗」を持ち上洛しました。金持大和守景藤公のお墓と伝えられている宝篋印塔が金持地内に現在も残っています。
開運伝説
「長谷部信連公の再起」
平家物語や源平盛衰記など多くの古書で快男児としてうたわれている長谷部信連公。一一八〇年、後白河法皇の第二皇子の平氏追討計画が事前に発覚、信連公は密かに皇子を宮殿から脱出させ、孤軍奮闘しました。そのため七年間、金持郷に流刑の身となりました。その間に日野町にとって大切な延歴寺、長楽寺、祇園神社などを残しています。平氏滅亡後、源頼朝御家人七人衆の一人として、安芸国宮島の検非違使、能登国の地頭職として山中温泉の発掘等を手がけ、のちに加賀百万石前田家の筆頭家老職(穴水城主)として明治まで続く長氏の始祖となりました。
金持神社由緒
天常立尊・八束水臣津奴命・淤美豆奴命を祭神とし、近世までは「三体妙見宮」といわれていた。
社伝によると、出雲国菌妙見宮から勧請されたという。勧請された年代は不明である。維新後に、現社名に改称された。「金持」という景気のよい地名は、タタラか鍛冶に係わるカヌチ・カナジの語から出た地名だろうといわれる。また、「太平記」に登場する金持景藤をはじめ、「吾妻鏡」「愚管抄」「大山寺縁起」などに名が出る金持氏の本拠地であったと思われる。
この「金持」という縁起の良い名前から、昭和後期から注目され始めた。「当社に祈願してから宝くじを買ったら大当りした」とか、その真偽は別として、噂が噂を呼んで今様流行神となりつつある。
指画「龍神之図」
当地、日野町根雨出身の濱田壽峰さんにより平成十五年八月吉日奉納されました。
中国、唐時代から伝わる珍しい画法で、筆を一切使わず、手、指、爪などで描き日本では唯一の指画画家です。
五十歳の折、中国天津へ留学し著名な画家から花鳥風月を学び、これまで伊勢神社を初め、奈良・三輪明神、近くでは大山・大神山神社など多くの神社に「龍」を奉納されております。
ここに奉納された「龍神之図」は横二.五米、縦〇.六五米の作品で、「皆さんに福が訪れ、町の発展に役立つように」との願いと共に掲げられました。
御祭神
◇天之常立命(アメノトコタチノミコト)
天と地の極所にましまして、天と地との軸のごとく天地を保ち給う神なり。
国稚く、浮ける脂のごとくして、海月のように漂いたりし時、葦の芽のもゆるがごとくなりませる神にして国造りの神なり。
◇八束水臣津努命(ヤツカミズオミズヌノミコト)
国引きをなし、国土を広くされ給う神なり
◇淤美豆奴命(オミズヌノミコト)
国引きの時、綱になられ給う神なり。
この三神を合わせ祀りて、三体妙見と言い、国土経営に力を入れ給う神なり。
合祭
◇天香語山命(アメノカゴヤマノミコト)
一名を高倉下命と申し、神倭伊波禮毘古命(神武天皇)の東征に力を貸し給う神なり
由緒
創立年代不詳であるが、当社は出雲国薗妙見宮を勧請せる社にして、旧社号を「妙見宮」と称し、明治元年神社改正の際「金神社」と改め、同年六月「金持神社」と改正す。
社記
当社「妙見宮」は、五十二代嵯峨天皇の弘仁元年(八一〇年)伊勢神宮御遷宮の行われる時、出雲国薗妙見宮の神官の次男が伊勢神宮に立つにあたり、「道中安全の為」と、妙見宮の神前なる目付の玉石を御守神として袋に入れ、此の金持の地まで来たとき玉石袋が俄に重くなりどうする事も出来なくなり、旅中の事とてしかたなく、その場において伊勢に急いだ。そのころ、梅林家(現宮司)先代吉郎左衛門に宮造りする様神夢があり、その玉石をこの里の氏神として崇め奉った。
【元弘の乱】
元弘三年(一三三三年)二月二十四日、元弘の忠臣金持大和守景藤は後醍醐天皇が隠岐の国を脱出され、これ又元弘の忠臣名和長年により船上山に旗上された事を知り、この妙見宮に必勝祈願をし御神前の戸張りを御旗となし、金持党三百騎を引き連れて船上山に参向味方し奉り大活躍した。
【金持大和守景藤公について】
金持大和守景藤公はこの地の豪族で元弘の忠臣として名和長年公と共に山陰が生んだ誇るべき人物です。天皇が京都へ還幸の折には、金持景藤公が天皇の左側で「錦の御旗」を持ち上洛しました。天皇京都へ還幸されるとき、この金持神社に立ち寄られ、聖運萬安の祈願をかけ給われた。また金持神社から一粁程上、国道一八一号線沿いに小高い丘の上に金持大和守景藤公の墓とされる、高さ一米の宝篋印塔がある。地元の人は「景藤さん」と言って親しんでいる。
地名の由来
「金持」と言う縁起の良い地名は、勿論全国でここだけ。鉄の古い字は「金の玉(鉄)」、昔の人が「黄金にもまさる」と大切にした鉄の産地で、古代文化「製鉄」の名残りなのです。
「かもち」という地名は、肥前に「鴨打」、駿河に「金持」があったが今はない。鳥取県日野郡の「金持」は、「加持」とも書いたと言われているので、古くから「かもち」と読んでいたことに疑いはないが、地名の由来を考えると「かもち」の「か」は「金」と考えた方がよいと思う。しかし、「金」は黄金ではなく黒金であろう。金も鉄も「かね」と読むことは、「かなけ(鉄気)」「かなぐ(金具)」などの例からも分かる。「伯耆誌」には、金持村に朝狩山(アサカリ)、野谷山(ノダニ)、平畠山(ヒラバタケ)と言う三つの鉄山があったと書いているが、これらの鉄山を持つ村と言う意味で「かなもち」と言い、それが略されて「かもち」となったのではなかろうか。或いは「かぬち(鍛冶)」の「ぬ」が「も」に転じたと考えられぬこともない。
「ふるさと歳時記」鳥取大学 徳永職男氏 より
大同5年(810)、出雲国薗妙見宮(長浜神社)の神官の次男が伊勢神宮参拝のためこの地を通りかかった際、お守りである神前の目付の玉石が急に重くなったので置いていき、その頃に現宮司家の先祖に宮造りするよう神夢があったので、その玉石が祀られたのが始まりとされています。
創立年代不詳との記載もみられるのは、この伝承の信憑性が低いから、とかなのでしょうか。
元弘3年(1333)後醍醐天皇を奉じて討幕の軍に参加した金持景藤が、当社に必勝祈願し、神前の戸張を御旗にしたという伝えがあります。
明治までは「妙見宮」と称していました。
明治元年「金神社」と改め、同年6月「金持神社」と再度改称されています。
「金持(かもち)」の由来については、鉄山を持つ村と言う意味で「かなもち」が転じたとか、タタラか鍛冶に係わるカヌチ・カナジの語から出たとか言われています。
金運・開運祈願等といってメディアで取り上げられるイメージから、派手な神社をイメージしていたのですが、全然そんなことはなく、地方の山間にある小さな神社という印象でした(授与所と大きな駐車場がちょっと豪華な感じではありますが)。
個人的には、落ち着いた雰囲気の方が好きなので安心しました。
私の参拝が平日の夕方だったので人はほとんどいませんでしたが、休日の日中ならばもっと参拝者がいて印象も違ったかも。
金持党発祥之地
金持党発祥之地の碑
ここ鳥取県日野郡日野町金持は、全国に広がる金持一族発祥の地である。古代、鉄を産したことにより当地は「かもち」とよばれ「金持」の漢字があてられた。やがてここに藤原姓の金持党が生まれ鎌倉時代初めの元久年間には金持広親公が伯耆守護となるなど、砂鉄を背景として次第にその勢力を拡げた。その後、宝治合戦で敗れて雌伏してた金持党が再び世に現れたのが元弘の変である。隠岐を脱出した後醍醐天皇は、名和長年の援けを得て船上山に拠り鎌倉幕府追討の檄を飛ばした。これに応えて馳参じたのが金持大和守景藤公率いる300余騎の軍勢であった。景藤は後醍醐天皇の京都帰還の際には、錦の御旗を奉じてその左に従うなど、股肱の臣として建武新政の重要な地位を占めたのである。以後、金持党は終始南朝方として各地を転戦した。しかるに南朝は次第に衰亡、伯耆は北朝方の山名氏によって支配され金持党はその本拠を失うに至った。しかし、金持党の末裔は転戦先にてその名字を残している。金持の地を離れたことにより、読み方は「かなじ」「かなもち」「かねもち」などに変わったが、多くはここ金持党の末裔である。金持党誕生以来900余年その本貫であるこの地に碑を建立するものである。
御朱印
御朱印はあります。
社殿そばの授与所で拝受可。
宮司さんは常駐ではないので、ご不在の場合は下の札所で書置きがいただけます(私がいただいたのも書置き)。
オリジナル御朱印帳もあります。
今も頒布しているのかは不明ですが、2020年時点では限定の御朱印帳も存在していたようです。
アクセス
米子道江府ICを降り、国道181号を南へ。車で15~20分ほど。
国道沿いの神社札所横に広い駐車場があります(位置)。
伯備線根雨駅からバスもありますが、一日4本、朝と夕方しかないので微妙です。
駅から徒歩なら45分ほど。
神社概要
社名 | 金持神社(かもちじんじゃ) |
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通称 | – |
旧称 | 妙見宮 金神社 |
住所 | 鳥取県日野郡日野町金持74 |
祭神 | 天之常立尊 八束水臣津努命 淤美豆奴命 |
合祀 | 天香語山命 |
社格等 | 旧村社 |
札所等 | – |
御朱印 | あり |
御朱印帳 | あり |
駐車場 | あり |
公式Webサイト | http://kanemochi-jinja.net |
備考 | – |
参考文献
- 「金持村」, 『日本歴史地名大系』(データベース「JapanKnowledge」)
- 「金持神社」, 神社本庁教学研究所研究室編『平成「祭」データ(CD-ROM)』全国神社祭祀祭礼総合調査本庁委員会, 1995
- 鳥取県神社誌編纂委員会編『新修鳥取県神社誌 因伯のみやしろ』鳥取県神社庁, 2012
- 鳥取県神職会編『鳥取県神社誌』鳥取県神職会, 1935(国会図書館デジタルコレクション 294コマ)