賀茂神社天満宮。
米子の中心地、加茂町に鎮座。
米子の地名発祥伝説の伝わる、米子(旧米子町)最古の神社。
境内
社頭
社号標
鳥居
狛犬
神門
扁額
手水舎
このデフォルメされた雷神様のキャラクターは当社のオリキャラで「いつき君」というそうです
いつき君ファミリー
社殿
拝殿
扁額
本殿
米子三名水の一つ「宮水」
参道左手に井戸があり、米子三名水の一つ「宮水」が湧いています。
汲み取ることもできます。
宮水
古歌 いにしえゆ岩間くぐりて湧く水の千代にたやさぬ賀茂の宮水
「宮水」は往古より当神社境内に湧き出て、上水道が普及するまでは飲料水として町民に親しまれて来ました。
この辺りは米子と呼ばれる以前賀茂の浦と言う地名で、海辺であったと推察されます。岩盤が重なり合って出来た地層に、賀茂三笠山(米子城跡の山)等に浸透した水が浄化され、社地に湧き出るのは神の恩恵と言えるでしょう。
宮水お水取り
開運 お汲み取りした宮水を、家(事業所)の東北の隅から時計回りに東南、西南、西北の順に撒き、最後に玄関へ撒いて下さい。
清祓 お汲み取りした宮水を、お風呂に少量入れて入浴して下さい。
祈念 早朝身を整え神社に参拝し、二~三分通水した後きれいな水を少量汲み取って飲んで下さい。持ち帰る場合も早朝、少量の宮水を汲み取り、なるべく早めに飲んで下さい。
宮水祭
米子地名発祥伝説に因んで 毎年八月十八日
お水取りの際ご祈祷を希望される場合はお申し出下さい。(詳細をお問い合わせの上ご予約下さい。)
お水取りのご注意
- 宮水は厚生労働省令第一〇一号水質基準に適合しておりますが、万一の場合においては保証致しません。
- お汲み取りは必ず通水してから、飲用量(約一八〇ml位迄)、飲用時期(お汲み取りしてからなるべく早く)を厳守しください。
- 自然保護のため、一度のお汲み取りは一~二l位迄とし、容器はご持参ください。
- 宮水を営利目的で使用してはいけません。発覚した場合は法によって裁かれます。
三名水というからには他に二つあるはずなのですが、詳細不明。
やな井(位置)、高砂連理の井(位置)と紹介しているサイトもありました。
境内社等
稲荷神社
武内神社
米府武内神社は、湊山八幡宮(賀茂神社に合祀)の摂社で因幡国宇倍神社より勧請。相殿に木野山神社を合祀。祭神武内宿禰命は五円紙幣に載せられ、以後大正・昭和と数回、五円・一円紙幣の図柄となる。おかねに御縁があり商売繁昌の神様とも云うが、元来長寿の神として信仰篤い。第十二代景行帝より成務・仲哀・応神・仁徳帝の五朝にお仕えされ、誠を尽くし天皇の信任篤く、我国最初の「大臣」で総理大臣の祖、国の功神。木野山神社は疫病退散・病気平癒の御神徳有り。例祭十月二十日。
遥拝所
《遥拝方法》
宮水で清めてから東方に伊勢神宮・賀茂別雷神社・北野天満宮・伏見稲荷大社等を遥拝して下をくぐり、次に西方を向いて元来神体山である賀茂三笠山(米子城跡)・出雲大社・日御碕神社等を遥拝し再度くぐってから神社へお参りします。
くぐる事によって厄祓・家内安全・商売繁盛・合格必勝・諸願成就等神のおかげを戴きます。
遥拝所・礎石 平成二拾四年 施工
本殿千木前後 二基(全長弐・六メートル、幅弐拾センチ)
本殿鰹木 三基(全長壱・五メートル、径弐拾~弐拾五センチ)
本殿鬼前後 二基(全長壱・参メートル、全幅壱・九メートル)
拝殿鬼左右 二基(全長壱・壱メートル、全幅壱・七メートル)
千木・鰹木・鬼 昭和参拾六年 施工
千木は古代、屋根を作る時に木材弐本を交叉させて結びつけ、先端を切り揃えずにそのままにした名残りと云われ、千木・鰹木ともに元々は建物の補強のためのものであったが今日では神社建築の象徴となっている。
鬼は厄除と装飾を目的としたもので鬼瓦とも云い日本建築や社寺などでよく見られる。
当社で半世紀前に施工された鬼を降しそのままの形を残して修復した建造物は遥拝所として此処境内にその形を残す。
由緒
加茂神社は、米子の鎮守の神として米子城主代々の厚い保護を受けてきた。このあたりは、戦国時代のころまでは加茂の浦とよばれていた。
そのころ、野田翁次郎という者が老年になっても子供がなく、当社に祈願したところ八十八歳で子供に恵まれた。このことが稀代の霊験として評判になり、八十八にちなんで地名が米子に改められたと伝えられている。
昭和三十七年に天神町にあった稲荷神社と北野神社(天満宮)が加茂神社に合祀された。正面鳥居の左側の井戸は、米子三名水の一つで、上水道が普及するまでは、この宮水は町内に売り歩かれた。
創建時期は不詳。上賀茂神社からの勧請とみられています。
発掘調査によると平安時代には既に人家があり、室町時代には相当の集落が存在したと推測されており、また米子の旧名は当社にちなむ加茂(賀茂の浦)と称したともいわれることから、古くから鎮座していたと思われます。
市内を流れる加茂川の名も当社に由来。
また当社の背後、米子城跡のある山は神体山で、賀茂三笠山というようです(湊山、峰続きの丸山、国道挟んで飯山とあるのですが、おそらくこれらをまとめて指すと思われる)。
旧米子町最古の社だとも。
米子城主の崇敬を受け、米子鎮守の神とされてきました。
明治に入り、賀茂神社と改称。
昭和36年に稲荷神社を合祀(後述)、賀茂神社天満宮と改称。
「米子」の地名の由来
当社には米子の地名発祥の伝説が2つ伝わっています。
- 野田翁次郎という人が老年になっても子供がなく、当社に祈願したところ八十八歳で子供ができたため、これが稀代の霊験として評判になり、「八十八の子」→「米子」になったという説
- 当社の井戸(宮水)は飲料水に供するために掘られた古い井戸で、米研ぎにも使われた。古くは「米を研ぐ」を「よなぐ」といい、そこから「よなぐ井」→「よなご井」と転じ、吉川元春が飯山に砦を築いた時に「米子」の字をあてたとする説
実際のところ他にも説はあり、真実は不明です。
合祀社1:稲荷神社
祭神:倉稲魂命
慶長6年(1601)、中村一忠が米子城主として入国の際、駿河より米城府北廓内の曲松に勧請。
元禄4年(1691)、荒尾成重が片原町(現在の天神町)に遷座。
元は稲荷大明神、五社大明神と称されていたのを明治元年に稲荷神社と改称。
昭和36年、賀茂神社に合祀。
曲松(現・内町)の旧地には現在も元稲荷として小祠が残されています(位置)。
合祀社1-2:天満宮
祭神:菅原道真命
古くから天神町に鎮座した神社。夏祭りが盛大だったと伝わります。
明治元年に北野神社と改称、大正4年に上記の稲荷神社に合祀。
昭和36年に稲荷神社が賀茂神社に合祀の際、米子唯一の天神様として尊崇厚かったため、当社の名が残され現在の「賀茂神社天満宮」という社名になりました。
合祀社1-3:恵比須宮
祭神:事代主命
尾高町の中央南に鎮座した神社(元はもう少し北にあったという)。
正月10日の「十日えびす」が有名だったといいます。
明治元年、蛭子神社と改称。
大正4年、上記の稲荷神社に合祀。
合祀社1-4:米原神社
祭神:須佐之男命
元は米原町に鎮座し、荒神宮と称された神社。
明治元年、米原神社と改称。
大正5年、上記の稲荷神社に合祀。
合祀社2:萬能神社
祭神:須佐之男命・大已貴命・少名彦那命
万能町に鎮座し、荒神宮・八将荒神宮と称された神社。
明治元年、萬能神社と改称。
昭和32年、火災により焼失。
昭和48年、賀茂神社に合祀。
合祀社2-2:榎大神宮
祭神:天照皇大神
東町に鎮座した神社。境内に大榎があったことから榎大神宮と称されたといいます。
明治元年、萬能神社に合祀。
合祀社3:湊山八幡宮
祭神:誉田和気命
元は城山八幡台に鎮座し、慶長年中(1596~1615)に賀茂神社の隣(現・金光教米子教会の場所)に遷座したといいます。
時期不明ですが賀茂神社に合祀(『鳥取県神社誌』は軍陣八幡宮とし、明治元年合祀とする)。
御朱印
御朱印はあります。
社務所で拝受可。
オリジナル御朱印帳もあり。
オリキャラのいつき君ファミリーがあしらわれたデザインで、色は桃・紺の二種。
御朱印帳はオンライン通販もされているようです。
以前は出雲の韓竈神社(位置)の御朱印はこちらで授与されていたようですが、現在は韓竈神社近くのお店で授与されているようなので、多分ないと思います。
アクセス
米子駅を下りて県道28号を北西へ。
国道9号を渡り100mほど行くと左手に境内。
徒歩10分ちょっとです。
車の場合、国道9号を米子方面に走ってきて、加茂町2丁目交差点(位置)を北西に入ればすぐ左手に神社。
社頭に駐車場あり。
神社概要
社名 | 賀茂神社天満宮(かもじんじゃてんまんぐう) |
---|---|
通称 | – |
旧称 | 賀茂皇大明神 賀茂神社 |
住所 | 鳥取県米子市加茂町2-212 |
祭神 | 別雷命 |
合祀 | 倉稲魂命 菅原道真命 須佐之男命 大已貴命 少名彦那命 事代主命 誉田和気命 天照皇大神 須佐之男命 |
社格等 | 旧村社 |
札所等 | – |
御朱印 | あり |
御朱印帳 | あり |
駐車場 | あり |
公式Webサイト | https://www.kamoten.org/ |
備考 | – |
参考文献
- 「宮ノ町」, 『日本歴史地名大系』(データベース「JapanKnowledge」)
- 「賀茂神社・天満宮」, 神社本庁教学研究所研究室編『平成「祭」データ(CD-ROM)』全国神社祭祀祭礼総合調査本庁委員会, 1995
- 鳥取県神社誌編纂委員会編『新修鳥取県神社誌 因伯のみやしろ』鳥取県神社庁, 2012
- 鳥取県神職会編『鳥取県神社誌』鳥取県神職会, 1935(国会図書館デジタルコレクション 213コマ)