伊豫稲荷神社(伊予市稲荷)

伊豫稲荷神社。

松山自動車道伊予IC付近に鎮座。

新四国曼荼羅霊場第四十九番札所で、伊予七福神の恵比寿神。

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境内

大鳥居

 

大鳥居扁額

 

社号標

 

二の鳥居

 

二の鳥居前の社号標

側面には「右こんぴら道」とあります。

 

境内入口の鳥居

 

鳥居扁額

 

楼門

寛文二年(1662)に名工治部に作られたもので建指定の有形文化財となっています。

 

愛媛県指定建造物 楼門

造立 寛文二年(一六六二年)徳川家継の時代

特徴

重層入母屋造りで本瓦葺となっている この建造物は全体の様式が和洋と唐様をかね合わした折衷式となっており、柱は円くてその下のはしが算盤珠の様になり、円い石の礎盤上にたてられているし、江戸時代初期の建築に見られる桜、唐草等のおもいおもいの写実浮彫がほどこしてあるなど全体として桃山風の感じが現れている 大工は伊予の名工といわれた余土の治部の作と伝えられている

 

楼門の扁額

 

社号標

 

楼門脇の狛犬

 

注連柱

 

参道脇のお狐さん

 

手水舎

 

拝殿前のお狐さん

社殿

拝殿

 

扁額

 

拝殿に立て掛けられた境内図(参拝順路)

 

幣殿?

 

 

本殿

境内社等

新田社

 

亀石

 

石碑

万年の齢を重ねる亀の形をしたこの子持石は大雨の日に一年に一度子石を産み続けるといわれる孕石です

孕女に撫でられたりお腹の子が元気で生まれる事を願って亀に乗るように腰を掛けたりされる石です

 

夜泣石

伝説ではかつて灘町の庄屋、宮内家の奥庭にあり、風がなく月の出ない夜更けにすすり泣きの声を立てるので夜泣き石と呼ばれたそうです。それを聞いたある人が、「この石は連れの石があって、それと別れここに据えられたので暗くなって淋しくなると泣くに違いない。連れの石はわからないからお稲荷さんの所にある大岩のそばに置いたら泣き止むのではないか」といったため、ここに祀られたのだとか。この石を拝むと赤ん坊の夜泣きがなおるという評判があるそう。

 

夜泣石横の小さな石と祠

 

片方だけの顔が割れた狛犬

 

海社

 

恵比須社・庚申社

 

久美社・五臓社への鳥居

 

扁額

 

正面に五臓社

 

五臓社前で参道が左に折れ久美社・命婦社へ続きます

 

久美社・命婦社社殿

 

扁額

描かれているのは荼枳尼天?

 

久美社・命婦社

 

お狐さん

 

田中社・四大社

 

手前:絵馬殿、奥:宝物殿

 

正面鳥居脇の寶霊社

 

境内裏手、裏参道?の鳥居

先述の通りこのそばに駐車したのですが、ぱっと見、道が見えなかったのでこちらからは入りませんでした。昔は道があったのかしら。

由緒

境内由緒板

正一位 伊豫稲荷神社

御祭神 主神を宇迦能御魂大神として爾々芸命、伊邪那美命、菊理比売命、大宮能売命の五柱を御本殿に祀る。

大祭日

祈年祭 二月十七日

初午祭 旧暦二月初午日

土用干祭 七月二十日

例大祭(秋祭り) 十月十四日

神輿渡御 十五日

新穀感謝祭 十一月二十三日

當社の創祀は弘仁年間(八一〇ー八二三)と伝えられ、現在の伏見稲荷大社の稲荷大神様をお祀りした全国でも由緒正しき稲荷の古社です。

氏子地は旧二町十ヶ村に及び、平安時代は伊豫国司の保田地山崎保であったが仁平三年(一一五三)に伏見稲荷大社の荘園となった。山崎荘は後に河野氏の所領となり山崎庄と呼ばれ、神領地として稲荷村の知行が神主に安堵された。

藩政時代は大洲領、後に分藩した新谷領となったが氏子地は両藩にわたり、両藩主の祈願所とされた。

信仰上神仏習合と呼ばれる時代には、谷上山宝珠寺末院の十二坊が参道に並び建っていたが正保四年(一六四七)頃、唯一神道を主張する星右京大夫によって社僧が追い払われ十二坊は廃された。

享和二年(一八〇二)朝廷より正一位の神位が勅許になり、明治の制では郷社、昭和八年に県社となった。

社伝によれば、弘仁15年(824)に国司伊予守越智宿禰為澄が勅を奉じ、山城の伏見稲荷大社から御分霊を勧請したのが創建。

仁平3年(1153)、伏見稲荷の荘園となり、山崎荘と称されました。

 

弘安の役の褒賞として山崎庄を賜った河野通有は、それを大山祗神社に寄進。

以来河野一族は当社を崇敬し、稲荷村の知行は神領地として神主に安堵されました。

 

江戸時代には最初大洲藩領、後にその支藩である新谷藩領。

氏子地は両藩に渡り、両藩の祈願所とされていました。

 

かつては谷上山宝珠寺末院の十二坊が参道に並んでいたそうですが、正保4年(1647)頃に唯一神道を主張する星右京大夫によって社僧が追い払われ、十二坊は廃されました。

 

元禄13年(1700)、火災のため楼門を残して全焼、翌年再建。

享和2年(1802)、正一位に叙位。

 

明治4年郷社、昭和8年県社列格。

 

なお、境内社の久美社には以下の言い伝えがあります。

明治の初め頃、九州から来たという浪人風の旅人が湊町の「門茂」という宿に泊まります。しかし病気になり、長く泊まり続けて宿代がかさんでいきます。ある日彼は桐の箱を主人に差し出し、「この箱の中の品は日本中でも二つとない珍しい品なので、宿賃としてもらえませんか」と言い残し去っていきました。箱の中には、9つに分かれ、黄金色に輝く狐の尾が入っていました。

町の人5人ほどが一儲けしようと大金で譲り受けますが不思議な力のこもった物なので持て余してしまい、とうとう稲荷神社の氏子達が買い取り、明治11年(1878)神社へ奉納します。神社では大切に保管されますが、宮司の夢枕に立つというようなことがあったので昭和37(1962)の晩秋、境内南隅に久美社を建立して祀ることになったそうです。

この尾は九州佐賀藩鍋島家に代々伝わる秘宝でしたが、蔵番をしていた家臣にひそかに持ち出された、と言い伝えにはあるのだそう。

つまるところ、九尾の狐の尾を祀る神社。社名は九尾→久美かと思ったのですが、Wikipediaによると「久しく美しい」という意とのこと。今も狐の尾は宝物殿に保管されているといいます。

御朱印

御朱印はあります。

楼門左手にある社務所で拝受可。

神社の御朱印と、新四国曼荼羅霊場の御朱印があります。

伊豫神社(松前町神崎)の御朱印もこちらで頂けます。

 

アクセス

伊予ICすぐそばの稲荷口交差点を東に入るとすぐに大きな赤い鳥居があります(位置)。鳥居を潜って進みますが、道が狭いです。

少し進むと石鳥居があり、その先はさらに狭くなります。

 

駐車場はあります。境内入口の鳥居左手の道を進むと、道の脇に小さく駐車場の案内矢印が出ています。

案内によれば境内東の空き地(位置)かと。私はそもそも案内板に気づかず、境内裏手まで行ったところ裏参道の鳥居付近にスペースがあったのでそこに停めてしまいました。社務所手前にも1、2台ほどは停められるようです。

神社概要

社名伊豫稲荷神社〔伊予稲荷神社〕(いよいなりじんじゃ)
通称
旧称
住所愛媛県伊予市稲荷1230
祭神

宇迦能御魂大神

爾々芸命

伊邪那美命

菊理比売命

大宮能売命

社格等旧県社
札所等

新四国曼荼羅霊場第四十九番

伊予七福神 恵比寿神

御朱印あり
御朱印帳
駐車場あり
公式Webサイト
備考

参考文献

  • 「伊予稲荷神社」, 『日本歴史地名大系』(データベース「JapanKnowledge」)
  • 「伊豫稲荷神社」, 神社本庁教学研究所研究室編『平成「祭」データ(CD-ROM)』全国神社祭祀祭礼総合調査本庁委員会, 1995
  • 明治神社誌料編纂所編『府県郷社明治神社誌料 下巻』明治神社誌料編纂所, 1912(国会図書館デジタルコレクション 378-379コマ