荏名神社。
高山市江名子町に鎮座。高山駅の東南東2km弱の場所。
式内社 荏名神社の論社。
境内
社頭
5/2~3が例祭のようで、飾り付けがしてありました(5/3参拝)。
社号標
一の鳥居
神橋
橋台の上部から斜め上方へ長形の撥石を突き出し、その上に二層の梁石を重ね、最上層に桁を渡す。この構造により桁をより短く、より高くすることが出来た。田中大秀が設計し、弘化二(一八四五)年九月完工した。
手水鉢
社号標
二の鳥居
狛犬
社殿
拝殿
本殿覆屋
境内社等
二の鳥居横にある巨岩
注連縄が巻かれており、磐座のように見えるも案内はなく、由緒書にも「一個の巨石」とあるだけで謂れは書かれていません。『神奈備にようこそ』さんの当社ページ記述によれば「境内に巨石が存在することが神域である証拠となった」(=荏名神社に比定した決め手?)とあるのですが、この内容は他の資料には見つけられず…
若宮社
此の小祠に鎮座されている若宮様は、御神体は石像で若宮八幡様とも言う。古昔の鎮座地は江戸街道の歩危口(現在の江名子小学校南側の丘の上)の大岩の上に祠があったが、文政年間(一八一八~一八三〇)に諏訪神社前の山(現在の荏名神社境外地山林)に遷座されていた。
昭和二十年代に、「諏訪神社」境内地へ遷座、さらに五十年代「荏名神社」境内地に遷座され、現在は荏名神社の末社として同時に祭祀している。社前にある石燈籠には寛保二年(一七四二)と刻してある。
神楽殿?
読めない
荏野文庫土蔵
カラー鉄板葺、二階建
桁行三.四七メートル
梁間三.四七メートル
国学者田中大秀の文庫蔵で、火災と鼠害から守るために池の中に建てられている。
大秀は、天保十年(一八三九)に土蔵の建築を思い立ったが、五年後の天保十五年(一八四四)六月になって手斧始め、翌弘化二年(一八四五)に完工した。壁土に京都神楽が岡の土を用い、飛騨国内各神社の注連縄を集めてスサに使ったと伝えられる。
二階前面明り窓の上には、「荏野文庫」の文字を浮彫りにした扁額が掲げられていた。橋も以前は簡単に取り外せる木橋であった。
旧蔵書の大部分は、飛騨高山まちの博物館に保管されている。
千種園跡碑
千種園とは田中大秀の邸宅。彼の号の一つでもあるようです。
境内の木々
田中大秀歌碑
鈴屋門下の逸材田中大秀翁は安永六(一七七七)年八月酉の日の酉の刻高山一之町村の商家に生まれた。四十歳を過ぎて家を嗣子寿豊に譲り、式内荏名神社を再興して傍らに移り住み、自ら荏野翁と称した。
この地における日日の研鑽が名著「竹取翁物語解」その他かずかずの業績を生み、ここはまた、多数の門人を指導する教場ともなった。千種園の名は大伴家持の歌に由来し、東方乗鞍岳の上に出る月の眺めが格別なので、居宅を賞月榭とも呼んだ。
とこしへにたえせずもがと大前に御石の橋は仕へ奉りつ 大秀
いま碑面に刻まれた歌は石の神橋を架け渡した時の翁の喜びの作、橋は江名子川の洪水にも落ちないよう工夫され、橋上から眺める雪景色は千種園八勝の一景にも数えられた。
弘化四(一八四七)年九月十六日翁は静かに七十一年の生涯を閉じ、南東松室岡の上に葬られた。
由緒
式内 荏名神社
祭神 高御産巣日命 愛那能御神
江名子川と塩谷川の合流点に一個の巨石が存在するこの神域は、古来稲置の森といわれ小祠があった。文化十二年(一八一五)、飛驒が生んだ国学者田中大秀は、延喜(九〇五)の昔定められた飛驒八社の内の一社であったことを考証し、神域を整備し社殿を改築して境内の一隅に千種園と称する邸宅を建て、祭祀を怠らず著作と後進の養成に努めた。
境内の荏名文庫土蔵は、京都の神楽岡の土を運んで名工江戸屋万蔵に塗り上げさせたもので、中に大秀翁の遺作彫像や八雲文台を蔵する。
指定文化財
一.荏名文庫土蔵 一.田中大秀墓(境外) 県指定
一.八雲文台 一.神橋 一.道分灯籠(境外) 市指定
創建時期は不詳。
当社を延喜式神名帳の「飛騨国大野郡 荏名神社」および、三代実録 貞観9年(867)10月5日庚午条にみえる「飛騨国従五位下…荏神…従五位上」の荏神にあてる説があります。
江戸時代には衰退しており、当地は稲置森と呼ばれ、子安大明神の祠を残すのみでした。
国学者田中大秀は、文化11年(1814)にこの祠に神鏡を奉納。翌12年(1815)に花火・湯之花神事を執行。文政元年(1818)には社殿を普請し、その後は社傍に移り住み自ら神主となり奉仕。
大秀は、荏名・荏野が胞衣(えな)に思い違えられた結果、安産祈願→子安明神になったと考えたようです(『明治神社誌料』の記述)。ただ、『飛騨の神社』では彼が里巷の話や古説を手繰ったともあり、前述の通り『神奈備にようこそ』さんに「境内に巨石が存在することが神域である証拠となった」との記述もあるため、当社の式内社比定の決定打となった理由はわかりません。
ちなみに荏野(荏名は借字らしい)の地名は、村口に荏(エゴマの古名)がよく熟したために付いたもので、そこから村の奥は荏野奥、転じて江名子、つまり現地名になったとされます。
明治4年郷社列格。
祭神は高皇産霊神。
『神名帳考証』は大屋津姫命とします。
『斐太後風土記』は高御産巣日神、愛那能御神とします。
『式内社調査報告』は高皇産霊神、荏名大神としています。
荏名大神=愛那能御神?地主神でしょうか。
御朱印
御朱印の有無は不明。
アクセス
国道41号を高山工業高校前交差点(位置、高山駅の1.5kmほど南)で東に折れて道なりに。
山王トンネルを抜け、県道462号に合流する手前の十字路(位置、ファミマの手前)を右折。
そのすぐ先(位置)で右折すると境内裏手に行けます。
神楽殿?の裏あたりに車が数台停まっていたので、その辺が駐車スペースとして使用されているのかと思います。ただし、そこから隣の民家(神職宅でしょうか?)へと道が繋がっているので停める位置には気をつけましょう(その奥にも普通に道は続いています)。
神社概要
社名 | 荏名神社(えなじんじゃ) | |
---|---|---|
通称 | – | |
旧称 | 子安大明神 | |
住所 | 岐阜県高山市江名子町1290 | |
祭神 | 高皇産霊神 | 現祭神 |
大屋津姫命 | 『神名帳考証』 | |
高御産巣日神 愛那能御神(=荏名大神?) | 『斐太後風土記』 | |
社格等 | 式内社 飛騨国大野郡 荏名神社 日本三代実録 貞観九年十月五日庚午 荏神 従五位上 旧郷社 | |
札所等 | – | |
御朱印 | 不明 | |
御朱印帳 | – | |
駐車場 | あり(?) | |
公式Webサイト | – | |
備考 | – |
参考文献
- 「江名子村」, 『日本歴史地名大系』(データベース「JapanKnowledge」)
- 「荏名神社」, 神社本庁教学研究所研究室編『平成「祭」データ(CD-ROM)』全国神社祭祀祭礼総合調査本庁委員会, 1995
- 式内社研究会編『式内社調査報告 第十三巻 東山道2』皇學館大学出版部, 1986
- 富田礼彦『斐太後風土記 上』(大日本地誌大系第七冊)大日本地誌大系刊行会, 1915(国会図書館デジタルコレクション 43-44コマ)
- 明治神社誌料編纂所編『府県郷社明治神社誌料 中巻』明治神社誌料編纂所, 1912(国会図書館デジタルコレクション 258コマ)