高田神社(飛騨市古川町太江)

高田神社。

杉崎駅の北北東、古川町太江に鎮座。

式内社 高田神社の論社。

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境内

一の鳥居

 

社号標

 

狛犬

 

二の鳥居

 

社号標

 

手水舎

 

狛犬

社殿

拝殿

 

扁額

 

本殿

境内社等

本宮

古代の立石祭祀遺跡。当社南西の御番屋敷遺跡から発掘され、平成25年に境内に移されたようです。

 

本宮

縄文時代中期の聚落跡である御番屋敷遺跡から出土した立石祭祀遺跡。昭和四十五年土地改良事業に伴う発掘調査にて萬物の生成繁栄の神霊を祀る当神社の芽生えと確認された。例年本宮祭を斎行す。平成二十五年五月吉日畏みて遷座奉る。悠久なり。

 

境内社

 

境内社?

 

五柱神杉

 

「主神の御名なる大木であり祭神五柱の御魂なる五本杉」

 

案内板

高田神社の大五本スギ

町指定天然記念物

目通り四・一m。

地上約一五mのところで幹が五本に分かれている。

樹齢は約四百年と推定される。

高田神社の御神木となっている。

 

御神水?

石碑

境内に多数の石碑があります。

 

飛騨國司 姉小路氏顕彰碑

 

姉小路氏顕彰碑

飛騨国司姉小路家綱卿は建武中興に大功があり伊勢北畠氏土佐一條氏とともに南朝三国司と称される。当神社を崇敬し境内には十楽観(館)を建て飛騨国統治の中枢とされた 平安京にならい野中には賀茂神を祀り上賀茂下鴨小島城を東山に賀茂川北野嵯峨などと名づけられた地名がいくつか今なを残る 国司姉小路家はその後尹綱 師言 持言 勝言 熈綱 宗熈 貞熈 基綱 済継 済俊の各卿が継承され更に嫡流小島城主時光公まで続く 当神社に奉納された刀剣甲冑桧(?)薙刀馬具火縄銃等は宝物として今に伝わり例祭には当時をしのぶ武者警護などがある 建武中興六五三年祭に当り姉小路氏二五〇年間にわたる治政に氏子一同その偉業を讃えてこの碑を建てる

 

飛騨姉小路家代々奥津城遺跡碑

奥津城遺跡自体は東方約450m、ミダ洞の麓にあるようです。

 

飛騨姉小路家代々奥津城遺跡碑

古代より中臣氏、藤原氏との由縁深き高家(太江)の里は朝廷に帰一し、中世の初期、藤原氏の後裔である姉小路氏の所領となる。その後このあたりは、飛騨の中枢として開花し十楽観(館)の飛騨國司姉小路氏と共に「飛騨の細江」と讃えられた処である。飛騨の姉小路家は字名として今も残るミダ洞の麓に、堂塔を建立し代々菩提所にされていた。

 

十楽観跡

 

十樂観記

後醍醐天皇建武中興御偉業称奉る中臣藤原の後裔姉小路家綱卿命持ち飛騨國司高魂命祀る日?代と縁深き高田の宮に入り平安京に倣ひ十樂観造営東に賀茂神社西に多度神社南に諏訪神社北に北野天神宮祀り天ヶ洞嵯峨山東山北山流れ清き賀茂川と名とし小島城成し飛騨國統治の中枢とす

以後二三〇年善政に栄へたが金森長近の侵攻で断絶した

然れども今日に於ても遺風が継承され例祭には鎧兜武者達が火縄銃を発砲して供奉するなり

 

髙魂命御神勅碑

 

髙魂命御神勅碑

吾は則ち天津神籬及天津磐境を起樹てて当に吾孫の為に斎ひ奉らむ汝天児屋命太玉命宜しく天津神籬を持ちて葦原中國に降りて亦吾孫の為に斎ひ奉れ

 

御祭神使雉碑

 

御祭神の使い雉の由来

高田神社御祭神は私達祖先が天地すべてを産み育てる根源の力をタカミムスビノミコト高魂命と称え始祖神として尊び敬ってきた この神のお使いが雉です

水穂国日本は天照大神の子孫が治める国と定められたが出雲国は容易に服従せず此に祖神高魂命の御加護を得られた雉は特命により出雲国に派遣されると先に派遣されていた天稚彦の裏切り矢で射殺される 雉の胸を貫いた血染め矢は天上に舞上り高魂命のもとに至るとそれを投げ返されその返矢に当って天稚彦は死んだ

その後出雲国は統一されたが神のお使いとして命を捧げた雉の功を称え古代高家(太江古代名)氏子は雉の捕獲射殺を堅く禁じその掟を今日まで守り続けている

因に当神社は遠く飛鳥時代敏達天皇御代此地に日奉部が置かれ祖神高魂命を高田と奉斎された延喜式国幣小社であります

由緒

由緒碑

式内社 金幣社 高田神社

御祭神

主神 高魂命

相殿神 白山比咩命 健御名方命 賀茂別雷命 天津彦根命

由緒

当神社境内近くに四、五千年前縄文時代中期の聚落跡と見なされる五番屋敷遺跡がありまた多数の遺物や祭祀遺跡(建石など)が発見されており既にその頃より当神社の芽ばえがあったことがわかる 社名の「高田」タカタは高台にある水田を意味し現在地の西方五十米余りの湿田には古墳時代祭祀に使用されたとみられる土器が数多く出土していることからその頃には神饌田もあり神社としての形態が整っていたものと考えられる また当神社を中心に環状に配されている二十一基の古墳は御祭神との関係を示すこの土地の氏族の墳墓と考えられることから当神社はこの氏族の氏神であり日本書紀や三代実録新撰姓氏録等に見られる敏達天皇六年(五七七)飛騨にも「日奉部」(ヒマツリベ)が置かれその伴造(トモノミヤツコ)が萬物の繁栄の祈願をこめて始祖神の「高魂命」をこの地に祀られたと考えるのが自然である

更に当神社の隣にある寿楽寺附近で白鳳期の古瓦が出土し近くに釜谷古窯跡もあることから古い寺院の存在が判明してそれは当神社の神宮寺的存在であったことが推定され萬物すべての生成発展をつかさどる高魂命を祀る当神社は当時広くこのあたり一帯の篤い信仰を集めていたと考えられる 当神社の御神威の発揚について正史に見られるところでは文徳天皇実録によれば仁寿元年(八五一)正六位上に三代実録には清和天皇貞観九年(八六七)従五位上を授けられ更に醍醐天皇延長五年(九二七)につくられた延喜式には二月の祈年祭に官祭の班幣を戴く飛騨国式内八社の一つに列し国幣の小社とされている 中世になり後醍醐天皇の建武の中興の御偉業に功績のあった飛騨国司姉小路家綱卿は当神社を崇敬し境内には「十楽観」(館)を設けられた それは平安京にならい野中に賀茂神を祀り小島城を築いてその山々を東山北の峰に北野嵯峨山城下の細江川を賀茂川と名づけられた地名がいくつか現存していることから飛騨国統治の中枢にされたことを物語っている またその館跡が現存する今日においても例祭の御神幸には当時の偉容を伝える武者姿が警護に当り火縄銃を発射して供奉しているが古書には神職が国司の姿をして佩剣したとある 近世になり白山信仰の勢力が飛騨にも伸びて当神社は白山社と改称され元禄検地帳には白山権現宮の名が見える しかし江戸時代文化年間当時神道の中心的存在であった京都吉田家の役人の調査により高田神社であることが確認され社号碑を建てて旧に復することになった

その後明治三年九月高山県は正式に式内社高田神社と称号する事を認め明治五年には郷社に列せられた そして昭和五十一年には岐阜県神社庁長参向の金幣社の指定を受けている 当神社には国司姉小路家一族の刀剣や甲冑など武具の宝物も多数伝わり随神と小島城主時光公所有とされる冬瓜蓑朱兜は古川町指定文化財であり御神木五柱杉は天然記念物に神楽獅子舞は県無形民俗文化財に指定されている 特にその舞中の采振りは独特のものとして評価され神前のみで舞われることになっている

主な?祭祀

歳旦祭 一月一日

焚上祭 一月十五日

節分祭 二月三日

建国祭 二月十一日

祈年祭 三月二十二日

例大祭 四月二十八日

建武中興祭 八月十三日

姉小路祭 八月十三日

御魂祭 八月十三日

新嘗祭 十月二十三日

除夜祭 十二月三十一日

月次祭 毎月一日、十五日

創建時期は不詳。

始まりはかなり古いようで、当社付近の御番屋敷遺跡から立石祭祀遺跡が発掘されていたり、当社を中心に環状に21基の古墳が配置されていたりします。

往古は神原峠の麓、字高田に鎮座したという説もあります(字高田の位置は不詳)。

 

延喜式神名帳の「飛騨国荒城郡 高田神社」および、三代実録 貞観9年(867)10月5日庚午条にみえる「飛騨国従五位下…高田神…従五位上」の高田神を当社にあてる説があります。

 

中世には国司姉小路氏の崇敬を受け、その遺風は現在も例祭の神幸に残されています(武者が火縄銃を発砲、神職が佩剣)。

 

近世には白山信仰の勢力が当地にも及び、当社も白山権現宮に改称、栃本白山と通称されるようになりましたが、文化年中(1804~1818)京都吉田家の役人によって高田神社に比定され、「高田神社」の社号碑が建立されました。

 

明治5年郷社列格。

明治6年字諏訪寺鎮座の諏訪神社を合祀。

明治40年字多度宮鎮座の多度神社、字加茂宮鎮座の加茂神社を合祀。

御朱印

御朱印はありません。

近隣のお宅(商店?)でお札等を頒布されているのですが(神職か否かは未確認)、御朱印はないとのことでした。

アクセス

杉崎駅の西から県道75号を北東方向に向かうと一の鳥居。

鳥居横の道を入り、二の鳥居前まで行くと、鳥居右手に駐車場があります。

神社概要

社名高田神社(たかたじんじゃ)
通称
旧称

白山権現宮

栃本白山

住所岐阜県飛騨市古川町太江字神垣内2669
祭神高魂命
相殿

白山比咩命

建御名方命

賀茂別雷命

天津彦根命

社格等

式内社 飛騨国荒城郡 高田神社

日本三代実録 貞観九年十月五日庚午 高田神 従五位上

旧郷社

札所等
御朱印なし
御朱印帳
駐車場あり
公式Webサイト
備考

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