知立神社。
知立市西町神田、知立駅の北に鎮座。
式内社 知立神社に比定される神社で、三河国二宮とされる神社。
境内
社頭
社号標
鳥居
扁額
石橋
市指定文化財(建造物)
昭和四十四年四月一日指定
この橋は、半円形に反った太鼓橋で、すべて花崗岩で組まれている。全長六・六m、幅二・四m、高さ一・六八mを測る。石の桁を弧状に通し、その上に橋板である厚さ十二cmの石の板十九枚が並べられている。
欄干南側右柱には「享保十七年(一七三二)十一月吉日敬白」と刻まれている。「東海道名所図会」には「石橋は神籬の外にあり、池を御手洗という、片目の魚ありとなん」と書かれている。
片目の魚は、身代わりとして娘を目の病から救ったためとの言い伝えがある。
千人燈
手水舎
狛犬
脇参道?の社号標
社殿
拝殿
祭文殿及び廻廊の屋根
この後ろに幣殿と本殿があるのですが、全く見えません。
これら社殿は全て国の登録有形文化財に指定されています。
境内社等
親母神社
合祀殿
小山天神社
神馬舎
秋葉社
神楽殿
多宝塔
国指定重要文化財(建造物)
明治四十年五月二十七日指定
嘉祥三年(八五〇)僧円仁が神宮寺を創建して知立神社の別当寺とし、多宝塔を建立したといわれます。その後天文十六年(一五四七)兵火により寺は焼失しましたが、多宝塔は永正六年(一五〇九)再建と伝わっており、天文の災禍を免れた神宮寺の遺構と考えられます。
相輪先端までの高さは約十四・五メートル、屋根は杮葺、四隅に宝珠を置きます。これらは明治の廃仏毀釈の際に取り外され、神社の文庫として難を逃れたもので、大正九年(一九二〇)の解体修理の際に復元されました。本尊であった愛染明王は廃仏毀釈で撤去されたまま現在は総持寺に安置されています。
和様を基調とした均整のとれた多宝塔であり、全国的にも遺構の乏しい神宮寺の建築を知る上で貴重なものです。
土御前社
境内西側の花しょうぶ園内にあります。
土御前社社号標
花しょうぶ園入り口に建つ池鯉鮒大明神(知立神社の旧称)の標
延喜式内二十六坐内知立神社の碑
芭蕉句碑
市指定文化財(建造物)
昭和四十年一月一日指定
不断堂川 池鯉鮒の宿農 木綿市(ふだんたつ ちりふのしゅくの もめんいち) 芭蕉翁
元禄五年(一六九二)秋九月、江戸深川で詠まれた松尾芭蕉の句である。
池鯉鮒の馬市は歌川広重の浮世絵に描かれて有名であるが、それと並び木綿市も年間を通じて行われ、賑やかであったことがうかがわれる。
池鯉鮒蕉門の俳人井村祖風が、寛政五年(一七九三)この句が作られて百年目にあったのを記念し、同好の士十五名に働きかけて建立されたもので、その名は碑陰に刻まれている。
国指定重要文化財(無形民俗) 平成二年三月二十九日指定
ユネスコ無形文化遺産登録 平成二十八年二月一日(日本時間)
知立神社の祭礼(知立まつり)は毎年五月二日、三日に行われ、本祭りと間祭りが一年交互に開催されます。本祭りでは五台の山車が宮入りし、山町・中新町・本町・宝町の四町の山車で文楽(人形浄瑠璃)が、西町の山車でからくり人形芝居が上演されます。
からくり人形が山車の上でただ動くだけでなく、浄瑠璃に合わせて物語を演じたり、山車の上で人形浄瑠璃が演じられることは、全国的にも珍しいものです。
山車の奉納がいつ始まったか定かではありませんが、承応二年(一六五三)に行われたとの記録が残っています。江戸時代の中頃には山車の上でからくりや人形浄瑠璃が演じられるようになったと伝えられます。
上演の技術の伝承はもちろん、人形や衣装の製作・修理にも多く町民の手が加わっており、地域の人々のまつりへの熱い思いが強くこもっています。
平成二十八年二月一日(日本時間)、「知立の山車文楽とからくり」を含む三十三件が「山・鉾・屋台行事」としてユネスコ無形文化遺産に登録されました。
一、昭和三十二年一月(一九五七年)愛知県重要文化に指定(工芸)
一、神額は表面に「正弌位智鯉鮒大明神」と彫刻され裏面に「正安三□八□」法印(一三〇五)の墨書銘がある。
彫刻は俗にやけんぼりと称えられ鎌倉時代末の作。
案内札には正弌位(弌=一)と書いてあるように見えるのですが、『愛知県神社名鑑』は「正貮位」、『式内社調査報告』は「正弐位」、『日本歴史地名大系』は「正一位」としており、一と二のどちらが正なのか不明。
『知立町誌』には「亀山天皇の弘長元年(1261)二月二十日正一位を授奉らる」という記述があるそうで(『式内社調査報告』による)、これが事実なら「正弌位」が正であるかと(ただし『知立町誌』記述の出典は不明)。
この神額を含む宝物は、毎年春の花しょうぶ祭(5/25~6/20)に社務所内宝物展会場で見ることができるそうです。
由緒
当神社は池鯉鮒大明神とも称え奉り、延喜式の古大社であって、第十二代景行天皇の御宇皇子日本武尊の東国平定の行路、此の地に於て皇祖建国の鴻業を仰いで国運の発展を祈願し給い、御帰途奉賽のため創建あらせられしと云う。延喜撰格の際は官社に列し、歴朝或は神階を奉られ或は昇叙せられて、元寇襲来に際して異国調伏の勅願あり。明治元年明治天皇御東幸の際に勅使を差遣して国運の発展を祈願し給う等、古来朝廷の御崇敬厚く、又歴代各藩主も或は土地を献じ或は社殿を造営し或は神饌幣帛を献ずる等夫々赤誠を捧げた。又衆庶の崇敬も厚く、古来より蝮除け雨乞い安産等の御霊験を以て全国に聞え、御分社は県内は固より遠く関東関西に亘って所々に奉祀せられ、崇敬者は全国に散在してその数を知り難い。又当社は弘法大師の崇敬殊に厚く、三河三弘法巡拝者の必ず当社に詣ずるは蓋し大師の敬神の精神を体するものである。
御祭神
鸕鷀草葺不合尊
彦火火出見尊
玉依比売命
神日本磐余彦尊(神武天皇)
相殿
青海首命
例祭日 五月三日(元旧暦四月三日)
社伝によれば、創建は景行天皇の御代。
日本武尊が東国平定の折、当地にて皇祖の神々に国運の発展を祈願、その務めを果たした帰途に報賽のために四柱の神々を奉斎したのが始まりとされます。
仲哀天皇元年(192)の創建とする説も。
当初は山町の北方高地(現社地の東~南東約1.5km程度)にあったといいます。
日本文徳天皇実録 仁寿元年(851)10月乙巳(7日)条に「進参河国知立。砥鹿両神階。並加従五位上」、日本三代実録 貞観6年(864)2月19日丙子条に「授参河国従五位上知立神…正五位下」、同12年(870)8月28日戊申条に「参河国正五位下智立神…正五位上」、同18年(876)6月8日癸丑条に「授参河国従四位下知立神…従四位上」とみえる知立神(智立神)、並びに延喜式神名帳にみえる「三河国碧海郡 知立神社」は当社に比定されています。
『三河国内神名帳』には「正一位 鯉鮒大明神」とみえています。
なお、大正14年の『知立町誌』には「仁明天皇の嘉祥三年七月従五位下を授奉らる」とあるがその根拠は不明、という記述が『式内社調査報告』にみられます。
「正弌位智鯉鮒大明神(正弐位とする資料もあり)」と記された正安3年(1301)の扁額があり、社宝とされています。
「智鯉鮒」は「ちりふ=ちりゅう」。更に時代が下ると「池鯉鮒」と書かれるようになっていきます。
天文16年(1547)、兵火により焼失。
上重原(現社地の南~南西2km程度)に遷座するも、元亀2年(1570)に再び焼失。
天正元年(1573)に現社地に遷座。
江戸時代には東海道三大社の一つに数えられ、参勤交代の途次、大名は必ず神札を受けたと伝わります。
なお東海道三大社(東海道三社)とは当社と熱田神宮・三嶋大社のことを指すようです。
明治元年、明治天皇の東幸の際に勅使が差遣され奉幣が行われました。
明治5年県社列格。
現祭神は鸕鷀草葺不合尊、彦火火出見尊、玉依比売命、神日本磐余彦尊の四柱。
社伝に基づくものとみられます。
他の説として、『神祇宝典』は大伴武日連、『神名帳考証』は木花知流比売、『神社覈録』『特選神名牒』『神祇志料』は吉備武彦命とします。
木花知流比売については、社名との音の繋がりによる説だと思われます。
大伴武日連、吉備武彦命については、日本書紀において日本武尊東征の従者とされているので、それに由来する説だと思われます。
なお、『神社覈録』と『神祇志料』は祭神表記の後に「熱田社鎮座記」と記しています。
「熱田社鎮座記」とは『熱田太神宮御鎮座次第神体本紀』を指し、その書には「知立神社 吉備武彦命」の記述がみられます。
また、大元の出典が不明なのですが、知立の地名の由来を解説した中日新聞のコラムで、当社の祭神についての記述があります。
この地は古代から「知立」「智立」と表記され、そのルーツはこの地に鎮座する知立神社にあることは事実のようです。由来に関しては諸説ありますが、いちばん信憑性の高い説は、知立神社の御祭神とされる「伊知理生命」(いちりゅうのみこと)の「知理生」(ちりゅう)に由来するというものです。ただし現在祀られている神様の中には「伊知理生命」はなく、この神様は謎に包まれています。
伊知理生命については各種資料にみえず、ネットにも主にこの記事を引用したものがわずかにあるのみ。
確かに謎に包まれています。
相殿に祀られる青海首命は、碧海地方開拓の祖神らしいのですが、詳細不明。
神武東征の水先案内を担った椎根津彦の子孫に、青海首という一族がいますが…
『式内社調査報告』には聖徳太子を後世に合祀、とありますが、他の資料にはみえません。
御朱印
御朱印はあります。
社務所で拝受可。
オリジナル御朱印帳もあります。
アクセス
名古屋や岡崎から国道1号で宮腰交差点(位置)まで来て、南西方向に折れ国道155号へ。その200mほど先にある知立神社南交差点(位置)が神社入口。
あるいは豊田から国道155号で南下してきて、知立神社南交差点で右折して境内へ。
ただ、豊田から来る場合、155号は神社付近で高架と下を走る側道に分かれており、側道の方からでないと神社に入れないので注意。
駐車場は境内の鳥居~石橋の間と、155号の高架を挟んだ南側にあります。
南のは、駐車場の南東側からしか入れません(155号側は封鎖されている)。
神社概要
社名 | 知立神社(ちりゅうじんじゃ) | |
---|---|---|
通称 | – | |
旧称 | 智鯉鮒大明神 池鯉鮒大明神 | |
住所 | 愛知県知立市西町神田12 | |
祭神 | 鸕鷀草葺不合尊 彦火火出見尊 玉依比売命 神日本磐余彦尊 | 現祭神 |
大伴武日連 | 『神祇宝典』 | |
木花知流比売 | 『神名帳考証』 | |
吉備武彦命 | 『神社覈録』 『特選神名牒』 『神祇志料』 | |
伊知理生命 | 中日新聞コラム | |
相殿 | 青海首命 | |
合祀(?) | 聖徳太子 | |
社格等 | 式内社 三河国碧海郡 知立神社 日本文徳天皇実録 仁寿元年十月乙巳(七) 知立神 従五位上 日本三代実録 貞観六年二月十九日丙子 知立神 正五位下 日本三代実録 貞観十二年八月廿八日戊申 智立神 正五位上 日本三代実録 貞観十八年六月八日癸丑 知立神 従四位上 三河国二宮 旧県社 | |
札所等 | – | |
御朱印 | あり | |
御朱印帳 | あり | |
駐車場 | あり | |
公式Webサイト | https://chiryu-jinja.com/ | |
備考 | 当初は山町の北方高地(現社地の東~南東約1.5km程度)に鎮座 |
参考文献
- 「知立神社」, 『日本歴史地名大系』(データベース「JapanKnowledge」)
- 「知立神社」, 神社本庁教学研究所研究室編『平成「祭」データ(CD-ROM)』全国神社祭祀祭礼総合調査本庁委員会, 1995
- 愛知県神社庁編『愛知県神社名鑑』愛知県神社庁, 1992
- 式内社研究会編『式内社調査報告 第九巻 東海道4』皇學館大学出版部, 1988
- 谷川健一編『日本の神々 神社と聖地 第十巻 東海』白水社, 1987
- 明治神社誌料編纂所編『府県郷社明治神社誌料 上巻』明治神社誌料編纂所, 1912(国会図書館デジタルコレクション 773-774コマ)