都美恵神社。
柘植駅の西(西南西)約1kmほどの場所に鎮座。
式内社 穴石神社の論社で、元伊勢敢都美恵宮に比定される神社の一つ。
境内
社頭
社号標
参道の橋
鳥居
手水舎
狛犬
社殿
鳥居と社殿
拝殿
扁額
本殿
社殿後方から
拝殿前からの風景
中央より少し左、木で隠れているあたりが霊山?
境内社等
本殿右の境内社
本殿左にも同規模の境内社があるのですが、正面には廻廊があり、右手からは本殿幣殿間に囲い(本殿の写真参照)があって、よく見えません。上掲の後方からの写真に、屋根だけ写っています。配祀神の経津主命、布都御魂命の社でしょうか。
耶須久尓社
社殿左手に社務所(都美恵会館)があり、そのさらに左にあります。
耶須久尓社の後方に階段があり、登っていくと途中に意味ありげな穴
が、詳細不明。
さらに登っていくと秋葉社
平成祭データには秋葉社の他に境内社として愛宕社、事比羅社の記載があるので、こちらに合祀されているのかも。
境内一角にある囲い
玄松子さんの記憶さんを見ると、以前はこの中に御神木があったようです。
囲いの中の青面金剛像と山神碑
御神木の跡と思われる場所の上に、大黒さんと恵比寿さんの像
神宮遥拝所
神宮遥拝所とは、わが国の神社の本宗と仰がれる伊勢神宮に向かって、この地から遥かに拝む神聖な場所であり皇大神宮御鎮座二千年を記念して建立したものであります
この柘植の地は、皇大神宮が伊勢の五十鈴川の川上に鎮座される以前の第十一代垂仁天皇即位二年(西紀前二十八年)の御代倭姫命が天照坐皇大御神を奉戴され倭の国から各地を巡行し、柘植川上流沿岸の当地に「敢都美恵宮」(元伊勢)として二年間鎮座し奉斎されたという明確な史実があり神宮と実に縁の深い場所であります
椎(しい)の木の切り株
この大きな椎の木の切り株は、御本殿の上に覆い被さっていた大木の根元でありますが、大きな枯れ枝が落下するなど、社殿を損傷するなど危険な状態になったため、このたびの都美恵神社御鎮座370年記念整備事業により、木の御霊にお詫びの神事を行い已む無く伐採いたしたものであります。
参道入口から70mほど西へ行くと敢都美恵宮遺跡の碑があります
実際には、敢都美恵宮はここから少し離れた古宮というところにあったそうです。
由緒
都美恵神社の起源は古く西紀二、三世紀以前ではないかと思われる。我が国へ渡来してきた北方民族(出雲民族)がこの柘植へ移住してきたことは、伊勢風土記逸文に「伊賀の事志の社に坐す神、出雲の神の子出雲建子命、又の名は伊勢津彦の神、又の名天櫛玉命、此の神、昔、石もて城を造り、其の地に坐しき、ここに阿倍志彦の神、来り集い勝たずして還り却りき。因りて名を為しき云々」とあることからも、霊山の中腹穴師谷にこれらの民族の祀っていた神であることは事実のようだ。
この神社のもとの名は穴石(穴師)神社又は、石上明神ともいって上柘植村の産土神として祀られていたが、寛永二十一年(一六四四)大洪水の為社地欠損甚だしく、正保三年(一六四六)今の地に移されたことは、種々の古文書から明らかであるし、その時の社殿造営の棟札(式内社 正保三戌年八月二十七日)も町文化財として今日残されている。
この神社の祭神は栲幡千々比売命、布都御魂命、布津主命外三十三柱となっているが、又他の一本によるともとの祭神は木花開耶姫であったとも伝えられている。
都美恵の社号については一村一社の合祀(明治四十二年四月)後、大正十一年七月に現社号に改称されたもので倭姫世紀、伊勢御鎮座遷幸囲略、二所皇大神宮遷幸要略等にある「敢都美恵宮」から「敢」をとって撰定されたもので、即ち都美恵は柘植の古語であり神宮縁りの地でもある。
こうした由緒のある宮をわれわれの産土神として末永く杞りつぎたいものだと思う。
例祭日 毎年 四月五日 渡御あり
創建は不詳。
元は穴石神社と称し、霊山の中腹、穴師谷(あしだん)に鎮座していたとされます。
この社は延喜式神名帳にみえる「伊賀国阿拝郡 穴石神社」の論社とされています。
『伊勢国風土記逸文』に、「伊勢と云ふは、伊賀の安志の社に坐す神、出雲の神の子、出雲建子命、又の名、伊勢都彦命、又の名、天櫛玉命。此の神、昔、石もて城を造り、其の地に坐す。ここに、阿倍志彦の神、来集ふ。勝たずして還り却る。因りて名と為すなり」と、伊勢の国号の由来(一説)が述べられています。この記述から、当地には出雲民族が移住してきていたと見られます。
攻めてきた阿倍志彦の神とは、敢国神社の神を指すという説もあるようです。
寛永21年(1644)大洪水によって社地社殿が損壊、正保3年(1646)に当地に遷座。
明治4年村社列格。
大正11年7月に都美恵神社へ改称。
これは「敢都美恵宮」から「敢」をとって社号としたもので、「都美恵」は「柘植」の古語だとのこと。
「敢都美恵宮」とは、『皇太神宮儀式帳』に阿閇柘殖宮、『倭姫命世記』に敢都美恵宮とある宮に比定される神社、いわゆる元伊勢の一つ。ただ、敢都美恵宮は実際には当社より少し離れた古宮という場所(位置は不明)にあったとされています。ある時に古宮の地が陥没し、穴石神社に合祀されたそうです。その祭神は倭姫命。
なお『三国地誌』では、当社ではなく上村の雨龍神社を敢都美恵宮に比定しています。この雨龍神社は明治40年当社に合祀され、旧地には跡碑が建っています(位置、伊賀市上村1856付近)。
東大和・西三重情報サイト内の『やまとひめの巡幸地「元伊勢」めぐり』というページに、小さく写真と紹介があります。
現主祭神は栲幡千々比売命で、経津主命と布都御魂命を配祀神、他三十三柱を合祀神としています。
一説には、元の祭神は木花開耶姫であったとも。
御朱印
御朱印はあります。
社務所で拝受可(私の時は宮司さんいらっしゃいましたが、ご不在の場合は掲示されている連絡先に要コンタクト。あるいは書置きも用意されているようです)。
アクセス
名阪国道の伊賀ICで降り、すぐ横を通る国道25号(非名阪)に入って西へ。
伊賀SA上りの下あたり(位置)で右折し北へ。そのまま500mほど行くと神社付近に。
参道脇にカフェ(元保育園)があり、その向かいに駐車場があります。また神社の右手に柘植地区市民センターがあり、そこにも駐車場があります。
参拝者が停めていいのかどうかはわかりませんが、境内には乗り入れできず周囲の道も狭いため、市民センターの駐車場をお借りしました。
神社概要
社名 | 都美恵神社(つみえじんじゃ) | |
---|---|---|
通称 | – | |
旧称 | 穴石(穴師)神社 石上明神 | |
住所 | 三重県伊賀市柘植町2280 | |
祭神 | 栲幡千々比売命 | 現祭神 |
木花開耶姫 | 一説 | |
配祀 | 経津主命 布都御魂命 | |
合祀 | 応神天皇 健速須佐之男命 稲田比売命 仁徳天皇 天穂日命 火産霊命 大山祇命 三筒男命 安閑天皇 大山咋神 建御名方命 大日孁貴命 埴山比売命 弥都波能売命 市杵島比売命 伊弉冊命 菊理比咩命 天太玉命 宇気母智命 伊勢津彦命 天手力男命 倭姫命 武甕槌命 宇迦能御魂命 天津彦火瓊瓊杵命 木花佐久夜比売命 八坂刀売命 玉依比売命 建角身命 猿田彦大神 天御柱命 国御柱命 火之迦具土命 | |
社格等 | 式内社 伊賀国阿拝郡 穴石神社 元伊勢 敢都美恵宮 伝承地 旧村社 | |
札所等 | – | |
御朱印 | あり | |
御朱印帳 | – | |
駐車場 | あり(?) | |
公式Webサイト | – | |
備考 | 旧社地は霊山中腹の穴師谷(穴石神社跡) |
参考文献
- 「都美恵神社」, 『日本歴史地名大系』(データベース「JapanKnowledge」)
- 「都美恵神社」, 神社本庁教学研究所研究室編『平成「祭」データ(CD-ROM)』全国神社祭祀祭礼総合調査本庁委員会, 1995
- 式内社研究会編『式内社調査報告 第六巻 東海道1』皇學館大学出版部, 1990
- 谷川健一編『日本の神々 神社と聖地 第六巻 伊勢・志摩・伊賀・紀伊』白水社, 1986
- 三重県神職会編『三重県神社誌 第2』三重県神職会,1922(国会図書館デジタルコレクション 284-301コマ)