岡八幡宮。
伊賀市白樫、名阪白樫ICのそばに鎮座。
源頼朝による鎌倉の鶴岡八幡宮の末社を全国に配置する計画により創建された、最初にして最後の神社。
境内
鳥居
社号標
井戸
社号標
二郷神社とは明治末~大正後期の一時期の社号。
手水舎
神鶏
鳥居
石段
狛犬
社殿
拝殿
扁額
本殿
左に2社、右に1社の境内社?がありますが、詳細不明。
境内社等
参道右手に洗心瀧の額が掛かった鳥居と奥宮社の案内
入っていくと禊場があります
禊場・洗心の滝
毎月22日に禊祭が行われており、その時に参拝すれば禊ができるそうです。
祓戸四神と国常立尊が祀られています
かえるさん
奥宮社鳥居
奥宮社
社前のこれは湧水でしょうか
祭神名が刻まれた岩
救世霊石社ともいうようです
霊石が祀られているのでしょうか。
社務所裏手にも洗心瀧の鳥居
社殿左手の礎社
護国の英霊を祀っているそうです。
小祠
白馬社
神馬像が2体置かれていて、左が八光、右が白光だそうです。
由緒書によると、神馬は白樫出身の中川甚兵衛重規が奉納したものだそう。槍術の名人高田又兵衛が境内で近隣の若者たちに槍術を教えていたころ、甚兵衛もそれを学び、そのお陰で出世できたとしてお礼代わりに奉納したのだといいます。
左の八光がその神馬のようです(明記されていないのですが、載っている写真から判断)。
尺殿明神山
山上に山神碑と大山祇ノ神、伊賀津彦ノ神・伊賀津姫ノ神の碑
大山祇ノ神、伊賀津彦ノ神、伊賀津姫ノ神は元よりこの地に鎮座していた尺殿明神です。
時代は景行天皇の頃、大和朝廷より伊賀の開拓を命ぜられた伊賀津彦と伊香津姫は山を分け河を渡って此の宮の森に辿り着き、大山祇の神を祭って居城とした。従者(今の奈良県橿原市白樫町の先人)は二十数名、五班に分れて各々、大山祇の神を祭る祠を建てて開拓に勤んだ。これが白樫村の始めです。
山の神
一、谷出の山中 二、北出大井の上 三、山辺正生氏の東 四、米村氏の芋谷 五、向中氏の西の山中
明治三十七年の合祀令にて今の山の神に合祀された。見事伊賀の開拓に生涯を捧げた伊賀津彦と伊香津姫を村人は伊賀開祖の神、尺殿明神としてお祭りした。
男女(婦夫)の性愛を基とした神様で縁結びの神様として地域住民から慕われ敬われて居る。
毎年一月七日「ふくらそ」の木で伊賀津彦と伊賀津姫のコケシを作って奉納し、大注連を奉納する。
水神
鈴鳴大辯才天社
扇塚
槍之又兵衛顕彰碑
高田又兵衛吉次、天正十八年(一五九〇)父、嘉右衛門吉春の長男としてここ白樫に生まれる。
幼くして武技を好み、自宅の砦や岡八幡宮の大木を相手に技を磨く。満十二才にして宝蔵院流槍術の門に入り、槍法を学ぶとともに、新陰流剣術、穴澤流薙刀も合わせて修業し創意工夫、遂に宝蔵院流高田派を創出する。
慶安四年(一六五一)三代将軍家光に呼び出され十文字槍の奥義を披露、葵の御紋付きの時服三領を拝領「槍の又兵衛」として全国にその名を知られた。
進退、屈伸、表裏、悠急、剛柔の十文字を説き、法形百一本、巴之術十五か条を考案するなど、十文字槍の哲理を深めた。
生来人格高潔にして、二天流の剣豪宮本武蔵や禅道の名僧隠元、即非、法雲とも親交深く、晩年崇伯と号し主家小笠原(明石・小倉)の名を高め、小倉の地で顕彰され名を残す。
寛文十一年(一六七一)没、小倉生往寺に眠る。
子孫よくこれを受け継ぎ槍術の振興に尽くすとともに、郷土の為特に岡八幡宮、慈恩寺の整備にちからする。
槍の又兵衛修業の森は境内か社叢のことでしょうか
イチイガシ
関東地方南部以西の本州・四国・九州・台湾・中国東部に分布する常緑のカシの一種で大木となる。
その果実(どんぐり)は、他のカシ類、ナラ類、クヌギ類の果実にくらべて、渋味が少なく、食用に適している。
西南日本の人類遺跡から、高い頻度で大量のイチイガシの果実が出土し、古くから利用されていたことが知られている。
かつては、イチイガシ林が今より広く、ひろがっていて、西南日本照葉樹林の重要な位置を占めていたことが推定される。
イチイガシは、低標高地の肥沃な土壌を好んで成育する。そのような場所は、人類の生活にとっても最適地であるため、有史以前から切り開かれて、人類の居住地となり、イチイガシは現在では僅かに社寺林などに残在するようになったものと考えられる。
このイチイガシの大木も、かつてのイチイガシの分布を考える上で重要な存在である。
イチイガシは大木となると、樹皮が大きい片状にはげ落ち、樹肌には渦巻状や、波状の模様が現れる。
根もとは、しばしば板を立てたように張り出し、熱帯雨林の樹木に見られる板根を思わせる株張りとなる。
葉は上半部に鋭い鋸歯があり、裏面は毛が密生し、黄褐色であるなど特異な性質を具えている。
拝殿前の巨木は杉?
由緒
上野市白樫三六三八
祭神
誉田別尊(応神天皇)、神功皇后、仲津姫命、仁徳天皇、大山祇神、伊賀津彦命、伊賀津姫命、天児屋根命、火之迦具土命、大物主命、建速須佐之男命、蛭子命、五男三女神、菅原道真公
祭祀
例祭十月十五日、春祭一月八日、祈年祭二月十五日、春季例祭四月十五日、祇園祭七月十五日、放生会祭八月三十日、新嘗祭十一月三十日
岡八幡宮の創祀について、准后伊賀記「右大将源頼朝郷鎌倉鶴岡ノ八幡宮ヲ勧請ス。則チ鶴岡ノ神職源豊氏久勝ガ弟勝宗ヲ神主トシテ今ニ豊氏是ヲ伝テ相続ス」又、同宮に伝わる国学者菊岡如幻筆及び社蔵の”岡八幡宮御縁起には右大将源頼朝公が鶴岡八幡宮に戦勝祈願をし、無事平定したる後は、八幡宮を一州一社移奉らんと神意を伺い”先ず伊賀と叶い伊賀の白樫猪ノ谷に四町四方の宮構を點じ、建久元年(一一九〇)四月十八日に御鎮座。御祭神は応神天皇、神功皇后、仲津姫、仁徳天皇四柱で鶴岡八幡宮の神職豊氏久勝の弟勝宗を神主とし公奉して来た社人八人とともに、白樫に留まって神事を司る。祭事については「鶴岡八幡宮の遺風古例に習う。」と記されている。放生池、流鏑馬馬場、探湯神事(神楽)外等々伝わり、神事の厳正に執行されたことを物語っている。北条氏時代、社領没収され衰退途を辿るが室町期、将軍足利尊氏により再興された。
現在の宮域は元来この地方の開拓神である伊賀津彦神、伊賀津姫神、大山祇神三柱(尺殿明神)が祀られていた地、その後、織田信長の伊賀攻めの際、社人四散する多難時代を見るが、伊賀藩主藤堂高虎公入国以後は藩主助力を得、代々の国主の当宮に対する崇敬は厚いものがあった。
御鎮座以来、こうした歴史の波に揺れながら、平成二年十一月三十日厳粛に御鎮座八百年祭が斎行された。
社伝によれば創建は建久元年(1190)。
源頼朝の直命で、鎌倉の鶴岡八幡宮の末社を全国に配置する計画の第1号として白樫に勧請されたのが始まり。
頼朝は奥州合戦の前に、鶴岡八幡宮で戦勝を祈願。「日本全土平定の暁には鶴岡八幡宮の末社を全国60余国に建立いたします。第一番に建てる国はどこにいたしましょう」と神の意を伺ったところ「伊賀の国に建てよ」との宣があったため、奥州攻略後、白樫村猪ノ谷(『平成祭データ』によれば「現在の神立家の裏山一帯」という)に方四町の神域を設けて建設にかかり、建久元年4月に工事が完了したとされています。
上記の通り、当初は「岡八幡」を全国に建立する計画だったのが、頼朝没後に中止されてしまい、白樫の岡八幡宮が最初で最後となりました。
その後北条氏に社領を没収され衰退するも、足利尊氏が再興し現在地に遷座。
元は岡八幡宮と号していたのが、明治41年に治田の黒滝社を合祀して二郷神社と改称。
大正11年に岡八幡神社と改称。
平成2年の鎮座800年祭で岡八幡宮に戻したそうですが、詳細不明。
御朱印
御朱印はあります。
社務所で拝受可。
伊賀忍者回廊の第24番となっていますが、御朱印が通常のものと異なるのかは不明。
アクセス
伊賀上野駅から南に向かい、上野ICで名阪国道に乗って大阪方面へ。
2つ先の白樫ICで下りて北へ進み、突き当りの白樫交差点(位置)を左手に。
200mほど先の交差点(位置)を右手に折れ、そのすぐ先でまた右手に折れます(ここに「岡八幡宮→」の案内が出ている)。
そのまま進んでいくと参道正面、鳥居前に出ます。鳥居前から少し左手の方に行くと、駐車場入口があります。駐車場はかなり広め。
神社概要
社名 | 岡八幡宮(おかはちまんぐう) |
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通称 | 岡さん |
旧称 | 二郷神社 岡八幡神社 |
住所 | 三重県伊賀市白樫3638 |
祭神 | 誉田別命 神功皇后 仲津姫命 仁徳天皇 伊賀津彦神 伊香津姫神 |
合祀 | 天児屋根命 菅原道真 火之迦具土命 大物主命 健速須佐之男命 蛭子命 五男三女神 愛宕将軍地蔵 |
社格等 | 旧郷社 |
札所等 | 伊賀忍者回廊第二十四番 |
御朱印 | あり |
御朱印帳 | – |
駐車場 | あり |
公式Webサイト | – |
備考 | 往古は猪ノ谷に鎮座 |
参考文献
- 「岡八幡神社」, 『日本歴史地名大系』(データベース「JapanKnowledge」)
- 「岡八幡宮」, 神社本庁教学研究所研究室編『平成「祭」データ(CD-ROM)』全国神社祭祀祭礼総合調査本庁委員会, 1995