諸岡比古神社(輪島市門前町道下)

諸岡比古神社。

輪島市門前町に鎮座。

式内社 諸岡比古神社ならびに石瀬比古神社の論社。

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境内

社頭

以前は赤い橋、さらに昔はガードレールの欄干だったようです。

 

鳥居

 

社号標

 

手水舎

 

境内

 

狛犬

 

撮り忘れていましたが、境内から少し北にも社号標があります(位置

社殿

拝殿

 

合祀社が記載された扁額

 

扁額

 

本殿覆屋

境内社等

境内社

旧地・大本山總持寺祖院

当社はかつて、現在の總持寺祖院の地(位置)に鎮座しており、總持寺祖院創建に際して現在の道下に遷されたといわれます。

總持寺祖院は現社地から東へ2kmほどのところにあります。

 

入口の門

空いてたら拝観しようと思っていましたが、ここの時点で人が見えたのでやめました。

 

寺号標

 

明治31年、大火により全山ほぼ焼失。これを機に移転が計画され、明治末に總持寺は神奈川県の鶴見に移転(交通の便などが考慮されたためらしい)。その移転先が現在の曹洞宗大本山總持寺。

当地にも伽藍の再建は行われていたようで(地元では移転反対運動もあったという)、總持寺別院として存続することとなり、昭和44年から總持寺祖院と称するようになったとのこと。

由緒

延喜式内大社八ヶ郷百八ヶ村惣社 諸岡比古神社由緒

祭神 岩城別王 天日鷲命 三筒男命 豊受大神 大国主命 国狭槌命

祭日 一月一日 歳旦祭 一月十九日 鎮火祭

   三月十日 新年祭 旧住吉神社旧善光寺地主神社春祭

   四月十七日十八日 春祭 旧八ヶ郷大社祭

   七月三十日三十一日 夏祭 旧住吉神社大祭

   十二月三日 あんねも祭 五穀成就感謝祭

   十二月三十一日 大祓祭

社伝によれば当社御創立は古代崇神天皇の御代の御鎮座とされ延喜式内の大社なり(延喜式神名帳制定八八一年)貞享二年(一六八六年)由来記によれば櫛比八箇之大社銕河宮即ち八ヶ郷百八ヶ村内の百十二社の惣社たり八箇郷は八庄より其名生れ即ち櫛比庄、二箇庄、本郷庄、浦上庄、阿岸庄、仁岸庄、七浦庄、大沢庄、有りて各庄には郷社を奉斎し当銕河宮は八庄の惣社たり永禄三年(一五四九年)銕河宮記によれば当宮は壱千有余年の霊地にして旧三月三日より十八日迄八ヶ郷、業を休み郷社大祭に参加したり、延喜六年(八八五年)醍醐天皇当社に御祈願のため神鏡を御奉納されたり、四條天皇の御代走出村に分霊を祀りしが神託により元享元年正月本宮に還幸せしめ奉る、当時此地は羽咋郡に属したるため羽咋郡十四座の一に列せられたり、八ヶ郷大祭には特殊神事が奉納され、曳山、流鏑馬、舞童、奉燈、松明、篝火、太鼓、大旗、獅子舞などと共に各村より神輿が当郷社に渡御され一大郷社大祭が奉仕されたり、其当地流鏑馬は本郷二又川より参宮、本内村からは松明、篝火の薪は浦上村より出で、小石村の木兵衛は薪を出し、勝田の鉾太郎兵衛は鉾を持ち、阿岸の右衛門、仁岸の左衛門とて御神事の警護役を勤め郷社大祭が行はれ境内には銕河神事相撲が奉納され壱千有余年の久しき連々として恒例の祭儀は大社たる事の由縁なり 古代元弘建武の頃国内乱れ戦国の世となり上杉謙信の能登侵攻をまぬがれず当大社も其難を受け、かつては七堂伽藍を有せし大社として壱千有余年信仰の聖地として盛況を極めたりしものなり中古石瀬比古神社と称せられしも明治十四年銕河神社と合祀され明治十五年諸岡比古神社と改称す、明治四十年八月道下氏神住吉神社、善光寺森氏神地主神社、切配氏神神明神社を合祀す、明治四十一年四月神饌幣帛供進の郷社に指定さる現在の御本殿は天和三年(一六八一年)百八ヶ村氏子中より御寄進を仰ぎ献立されたる重要なる文化財である。

創建時期は不詳。

崇神天皇の御代の鎮座とも、養老2年(718)に能登国が越前国から分立した際の鎮座とも。

延喜6年(906)に醍醐天皇より御神鏡が奉納されたと伝えられています。

 

元は總持寺祖院のある場所に鎮座しており、總持寺祖院創建の際に現在地に遷座。

遷座後は俗に鉄河明神、鉄川宮、金川宮などと称されたらしく、これは社前の川「かな川」に由来するようです。

總持寺の山号を諸嶽山というのは当社の旧地であるためで、また現在地を道下というのは当社に往還する道の下に当たるためだといいます。

 

延喜式神名帳にみえる「能登国羽咋郡 諸岡比古神社」ならびに「能登国鳳至郡 石瀬比古神社」の論社とされています。

貞享2年(1685)の由来記や、享保10年(1725)の『金川宮記』では、式内 石瀬比古神社であるとしています。

石瀬比古神社と称したのは、寛政の頃(1789~1801)に式の内外によって差があったため神職が称したためだそうで、根拠は不明。貞享2年の由来記に石瀬比古神社であるという伝えが記されていることから、昔からそういう伝承があったのかもしれません。

諸岡比古神社と称したのは明治15年からなのですが、社伝によれば前年の明治14年に銕河神社を合祀したとされており、あるいはその銕河神社=諸岡比古神社であった可能性もあります(ただし文政11年の社号書上帳に祭神として鉄河大明神の名が見えるので、実態は不明)。

 

文治年中(1185~90)、従四位下に叙位。

四条天皇の御宇(1232~42)、走出村(門前町走出)に分霊を祀るも、元亨元年(1321)に神託により本宮へ還幸。

 

明治14年、銕河神社を合祀。

明治15年、諸岡比古神社に改称。

明治41年、住吉神社、豊受神社、地主神社を合祀。

由緒書では豊受神社は見えず切配の神明神社を合祀となっています。『式内社調査報告』は豊受神社(切配村)としているので多分同じ社を指していると思います。また地主神社について、『式内社調査報告』は地主権現国狭槌神社としています。

 

現祭神は、境内由緒書では岩城別王、天日鷲命、三筒男命、豊受大神、大国主命、国狭槌命。

『平成祭データ』では天日鷲命、岩城別王、三筒男命、天照大神、国狭槌命、豊受大神。

『式内社調査報告』では天日鷲命、石城別王、三筒男命、天照大神、豊受大神、国狭槌命、大国主命、神功皇后、大山祇命。

文政11年(1828)の社号書上帳は「祭神石瀬比古神、石城別命、相殿、祭神天日鷲命、鉄河大明神」、昭和27年の神社明細帳は「天日鷲命、岩城別王、上筒男命、中筒男命、下筒男命、豊受大神、国狭槌尊」とします。

石川県神社庁のページでは上記いずれの資料にも記載のある天日鷲命、岩城別王、三筒男命、国狭槌命を祭神としています。

三筒男命と国狭槌命は明治の合祀祭神。豊受大神と天照大神もそうだと思います(資料によって神明神社だったり豊受神社だったりするので、祭神表記も異なるのか)。

『式内社調査報告』にみえる神功皇后、大山祇命については不明。境内社が一社あるので、その祭神かもしれません。

御朱印

御朱印の有無は不明。

アクセス

国道249号を八ヶ川河口付近(位置)で南に折れて、目の前の四叉路を右に行くと、左手に社号標があります(位置)。

社号標のところで左に折れ、そのまままっすぐ行けば境内に出ます。

駐車場はありませんが、境内に停められます。

神社概要

社名諸岡比古神社(もろおかひこじんじゃ)
通称
旧称

鉄河明神

鉄川宮

金川宮

住所石川県輪島市門前町道下22-1
祭神

岩城別王

天日鷲命

三筒男命

豊受大神

大国主命

国狭槌命

境内由緒書

天日鷲命

岩城別王

三筒男命

天照大神

国狭槌命

豊受大神

『平成祭データ』

天日鷲命

石城別王

三筒男命

天照大神

豊受大神

国狭槌命

大国主命

神功皇后

大山祇命

『式内社調査報告』

石瀬比古神

石城別命

『文政11年社号書上帳』

天日鷲命

岩城別王

上筒男命

中筒男命

下筒男命

豊受大神

国狭槌尊

『昭和27年神社明細帳』

天日鷲命

岩城別王

三筒男命

国狭槌命

『石川県神社庁』
社格等

式内社 能登国羽咋郡 諸岡比古神社

式内社 能登国鳳至郡 石瀬比古神社

旧郷社 

札所等
御朱印不明
御朱印帳
駐車場なし
公式Webサイト
備考旧地は現・總持寺祖院の地

参考文献

  • 「諸岡比古神社」, 『日本歴史地名大系』(データベース「JapanKnowledge」)
  • 「諸岡比古神社」, 神社本庁教学研究所研究室編『平成「祭」データ(CD-ROM)』全国神社祭祀祭礼総合調査本庁委員会, 1995
  • 式内社研究会編『式内社調査報告 第十六巻 北陸道2』皇學館大学出版部, 1985
  • 明治神社誌料編纂所編『府県郷社明治神社誌料 中巻』明治神社誌料編纂所, 1912(国会図書館デジタルコレクション 804-805コマ