美麻奈比古神社。
穴水町川島、穴水ICの東に鎮座。
式内社 美麻奈比古神社の論社で、同じく式内論社の美麻奈比咩神社を合祀したとされる神社。
境内
鳥居
扁額「穴水郷大社」
社頭の玉垣に社名(美麻奈比古神社と、合祀の白山神社)が刻まれています
社号標
三社名が並列されており、文字が小さめ。
狛犬
参道
手水舎
社殿
拝殿
本殿覆屋
境内社等
大正九年に拝殿屋根を茅ぶきから瓦ぶきとしたおりに飾られた鬼瓦。鬼師伊勢文五郎の押印がある。製作年代が知られる能登瓦として貴重である。
平成七年二月の新規ふき替え完成を記念して、ここに安置する。
池泉回遊式蓬莱庭園
折井池とよばれる神聖な池のまわりを、蓬莱世界(不老不死の理想郷)のシンボル「霊亀」で縁取り、池の中にも小さな亀が配された池泉回遊式蓬莱庭園。要所に春日灯籠と雪見灯籠が置かれている。天明元年(1781)の美麻奈比古神社絵図にも描かれており、明治時代にかけて整備されてきた。庭園の西側には勅使殿跡がある。
崇徳梅の碑
肝心の崇徳梅がどれなのかわからず写真なし…
延喜式内社である美麻奈比古・白山神社は古くより穴水郷の総社として崇敬を集め、能登の国津神宮ともよばれた。県内最古(平安時代中期)の御神像を有することからも、その由緒の古さが知られる。
かつて当社神木の一つに崇徳梅または勅使梅と呼ぶ崇徳天皇(一一一九~六四)勅裁の梅樹があった。永代変らず咲き匂う梅に、後年文人たちが和歌や俳諧をよせている。社殿修復を記念してその二首を歌碑とした。
植置きし君がむかしにいまも猶春をわすれずにほふ梅が香 吉田兼敬
梅の花いまもかはらすさきにほふいくももとせのしもはふれとも 吉田兼雄
吉田兼敬・兼雄は神祇管領長上・吉田家当主。ともに学問をよくし、兼敬(一六五三~一七三一)は神道界における宗家の地位を確立、歌人としても知られた。兼雄(一七〇五~八七)は唯一神道の拡大に努め、日本書紀をはじめとする神道書の注釈を行うなど、近世吉田家中興の人でもある。
ユネスコ無形文化遺産・アエノコト研究の礎をつくる
四十八代宮司 四柳嘉孝(一九二二~二〇〇二)
第二次世界大戦に学徒出陣した四柳嘉孝は、九死に一生を得て帰国。戦後は高校教員の傍ら、日本人の基層文化を求めて東奔西走の日々が続いた。そのなかで着目したものが奥能登に広く分布する田の神行事アエノコトであった。アエは饗応、コトは祭りで、あたかも田の神様が目の前にいますかのようにもてなして、収穫感謝と豊作を祈願する家ごとの神事である。昭和二十六年に発表した「能登半島の生活慣習研究」「能登半島のアエノコト分布と形態」は、民間の新嘗祭や祈年祭の原初的形態をとどめる貴重な事例を掘りおこしたものとして、民俗学の巨人柳田國男・折口信夫から絶賛された。やがて柳田の主宰する民俗学研究所員として九学会編「能登」に論文がおさめられ、全国に知られることとなった。それらの研究成果をもとに昭和五十一年、アエノコトは国指定重要無形民俗文化財に指定。平成二十一年にはユネスコ世界無形文化遺産に登録された。このほか能登の習俗や食文化の調査を広く行い、半島民俗学研究の基礎を築いた。
椿と日本人の精神性を探る
四十九代宮司婦人 四柳英子(一九四八~一九九九)
椿は古くから日本人のいきざまと深く結びついた樹木である。昭和四十五年度金沢大学卒業論文「椿と日本人」は、その歴史・文化・文学性を古代から現代までをひもとき、とくに江戸時代の美意識を中心に考察をくわえた。繊細な観察眼とみずみずしい感性で椿を見つめ、日本人の精神文化史に一歩踏み込んだ労作であるとして、「暁鳥敏賞」を受賞した。卒業後教職につき、管理職、豊かな心を育む教育推進県民会議委員、二児の母として、多忙を極めるも、やさしく凛とした生涯を歩んだ。平成十一年五月二十三日に惜しまれて帰幽。論文はついに自身の手で再考することはかなわなかった。だが、類書がなく今なお新鮮な輝きを保っている論文を通して、改めて椿の美学を世に問うため、翌年同名のタイトルで出版し、ホームページも立ち上げた。反響はことのほか大きく、その精神は常盤木のように、脈々と未来に語り継がれることであろう。
アームストロング砲
四〇口径十二インチ、明治二三年1890日露戦争記念品として、大正十二年四月海軍省より設置許可、巡洋艦”和泉”の砲身と考えられる。
美麻奈比咩神社旧地
とあるサイトに、当社の道路挟んで向かいが美麻奈比咩神社の旧地だとあったので見てみました(『平成祭データ』に「現社地(北宮本宮)の南、二十九日地区」とはあるのですが、明示はされていません)。
工務店の建物があります
その裏手らしいのですが、特に何もなく真偽は不明
由緒
境内の読めなくなった由緒書
創建時期は不詳。
当社の西(この辺り)に泉が湧いており、穴水堂と呼ばれ穴水という地名の由来であるといいます。『平成祭データ』によれば当社の荒魂で、寛政8年(1796)には井戸底から菊花散らし文鏡が発見されているそうです。
延喜式神名帳にみえる「能登国鳳至郡 美麻奈比古神社」に当社をあてる説があります。
しかし異論もあり、『大日本地名辞書』は、日本後紀 大同3年(808)10月丁卯(19日)条に能登国能登郡の穴水駅を廃す(廃能登国能登郡…穴水…等六箇駅、以不要也)とあり、即ち鳳至郡ではないという観点から「此地は古への能登郡なれば疑ふべし、長谷部氏彼郡(鳳至郡)の大屋庄より移したるにあらずや」と疑義を呈します。
ただし古代鳳至郡小屋(大屋)郷は当地付近までを含んでいたとする説もあります。
同じく延喜式神名帳にみえる「能登国鳳至郡 美麻奈比咩神社」とされる神社も当社に合祀されています。
天正5年(1577)に上杉謙信が当地に侵入、兵火に罹り美麻奈比咩神社は焼失。美麻奈比古神社に合祀されたといいます。
さらに、元は穴水城内に鎮座していた白山神社も合祀されています。
美麻奈比咩神社・白山神社の合祀時期は天正8年(1580)の社殿再興の時だそう。棟札によると、再建は長連龍によるもの。
明治12年郷社列格。
現祭神は美麻奈比古神、美麻奈比咩神、菊理媛神、宇迦之御魂神、建御名方神、猿田彦命。
美麻奈比古神が元来の祭神。美麻奈比咩神は合祀の美麻奈比咩神社、菊理媛神は合祀の白山神社の祭神。
大正元年に稲荷神社と幸神塚神社を合祀しており、恐らくそれぞれの祭神が宇迦之御魂神と猿田彦命と思われます。
建御名方神については『平成祭データ』に記載あるものの、『式内社調査報告』や石川県神社庁の紹介ページには見えず、由来不明。
なお『大日本地名辞書』には「美麻奈は記紀并に姓氏録を参考すれば、任那人の祖廟なるを推知す」とあります。
御朱印
御朱印はあるようです。
境内にあった書籍の案内によれば、恐らく参道左手のお宅が宮司さん宅だと思われますが、ご不在でしたので確認できず。
アクセス
県道1号(のと里山海道)の穴水ICを穴水市街方面(右手)に降り、県道1号を1kmほど南に行くと神社。
参道右手入ったところが駐車場だと記憶していますが…(この辺)
神社概要
社名 | 美麻奈比古神社(みまなひこじんじゃ) |
---|---|
通称 | – |
旧称 | 白山宮 |
住所 | 石川県鳳珠郡穴水町字川島ホ23-1,2 |
祭神 | 美麻奈比古神 美麻奈比咩神 菊理媛神 宇迦之御魂神 建御名方神 猿田彦命 |
社格等 | 式内社 能登国鳳至郡 美麻奈比古神社 式内社 能登国鳳至郡 美麻奈比咩神社 旧郷社 |
札所等 | – |
御朱印 | あり |
御朱印帳 | – |
駐車場 | あり(?) |
公式Webサイト | – |
備考 | 天正5年の焼失以前は、美麻奈比咩神社は「現社地(北宮本宮)の南、二十九日地区」に鎮座という |
参考文献
- 「美麻奈比古神社」, 『日本歴史地名大系』(データベース「JapanKnowledge」)
- 「美麻奈比古神社」, 神社本庁教学研究所研究室編『平成「祭」データ(CD-ROM)』全国神社祭祀祭礼総合調査本庁委員会, 1995
- 式内社研究会編『式内社調査報告 第十六巻 北陸道2』皇學館大学出版部, 1985
- 明治神社誌料編纂所編『府県郷社明治神社誌料 中巻』明治神社誌料編纂所, 1912(国会図書館デジタルコレクション 796-797コマ)