鹿島神社〔小斎鹿島神社〕(丸森町小斎字日向)

小斎鹿島神社。

丸森町小斎に鎮座。

三代実録 貞観8年(866)正月20日丁酉条に見える「(鹿島)大神之苗裔神卅八社」の一社と見られる神社。

広告

境内

社頭

 

鳥居

 

扁額

 

社号標

 

二の鳥居

取り忘れていますが、二の鳥居の手前に御神木と思しき木があり、その下に手水鉢があります。

 

狛犬

 

奉射祭が行われる場所?

社殿

拝殿

 

扁額

 

本殿

境内社等

招魂社

 

由来

この招魂社は、日露戦争において、強国ロシアと戦い日本のために若くして戦死した、弟「佐藤右門」を兄「佐藤左門」が、弟の英霊をここに祭ったものである。

この日露戦争に、丸森町から従軍した兵士の数は不明であるが、戦病死者は四十五名に及んでいる。

丸森町内の戦病死者は次の通りである。

小斎 六、丸森 十、金山 三、筆甫 一、大内 四、舘矢間 十三、大張 四、 耕野 四

一 佐藤右門 陸軍歩兵一等卒 享年二十三歳

明治三十八年三月一日 清国紅土嶺西北高地にて戦死

一 招魂社建立

明治三十九年三月二十七日 佐藤左門

一 招魂社改修工事

平成二十二年七月十日

斎主 加藤孝彦 奉納 佐藤ハル 工匠 星富隆 施工 小斎造園左官 星功

 

神輿殿?

由緒

由緒

平安時代に編纂された日本三代実録に貞観八年(八六六)正月の条に陸奥に常陸国鹿嶋神宮の苗裔神三十八社有りとあり、伊具郡の一座が当社である。

室町時代、天文元年(一五三二)、小斎の西舘城主小斎長門守の家老である斎藤軍太左エ門が宮材一切を寄付し社殿を再建、小斎氏の守護神として崇敬していた。

戦国時代末、小斎は伊達氏の家臣、佐藤宮内為信の領地となり小斎城に居館した。

江戸時代、佐藤家は鹿島大明神と守護神として崇め保護した。神仏混淆の時代で神社の管理は修験(本山派)鹿島山宝成院であった、佐藤家は代々これを庇護し、寛永十九年(一六四二)の検地帳に田畑三百三十九文を宝成院に永代寄付している。

明治元年、神仏分離により鹿島神社は宝成院と分離、同五年太政官達により村社に列せられ、同四十年三月幣帛供進神社に指定された。

明治以降になってからも鹿島神社を崇敬する氏子の志は変わらず、現在も地域の人々から崇敬されている。

 

奉射祭の歴史

小斎に伝わる「やぶさめ」は、馬に乗って弓矢を射る「流鏑馬」とは異なり、射手が立って射る(歩射)もので、記録には「奉射祭」と書かれており、「やぶさめ」と呼ばれている。

◯由来

明治十年旧正月十七日に書かれた鹿島神社御祭典奉射祭由来によると、寛永二十年(一六四三)小斎佐藤家四代領主清信公が初めて奉射祭を行わせ、その後慶応四年(明治元年)十三代恒信公の代まで二二四年続けて行われた。

明治維新を迎え、「徳川公の天下大いに乱れ、武将大いにおとろえ」たので、明治九年まで中断し、明治十年に復活したことが記録されている。

その後、日清戦争と日露戦争の時に中止されたほかは、明治四十五年(大正元年)まで続けて行われた。しかし、大正時代になってまた中止となり昭和十三年、青年有志によって二十六年ぶりに復活され、十四、十五年と三年行われたが、第二次世界大戦の激化により継続実施は不可能となった。

そして、平成三年まで五十一年間復活されなかった。

◯内容と次第

奉射祭は前記の記録にもあるように、「旧正月十五日より士十二人と別当とが二夜三日に及ぶ精進潔斎をし十七日辰の上刻御神的神事より始め、大的射礼、かりがねの的射礼」が行われる。

奉射祭のねらいは、年頭に当って一年間の天候を占い、五穀豊穣と地区内の安全を祈願すると共に、武術の練磨及び精神鍛錬を目的としたものと思われる。

一 精進潔斎

旧正月十五日昼食後鹿島神社境内の精進小屋(現在はない)に集合して合宿、朝夕ニ度の水垢離をとりながら、女人禁制、外出無用、精進料理で十七日まで二夜三日の間、弓術、作法、謡曲などの修練をする。

二 御神的神事

十七日辰の上刻(午前七時)白装束の神主が、二の鳥居に懸けた経五尺ニ寸(一・六メートル)の御神的に、白紙の目隠しをし、三尺余(一メートル)の桑の弓で、正月から十二月までにあてた二尺余(六〇センチメートル)の蓬の矢十二本を射て、月毎の天候を占う。

矢が白の部分にあたればその月は晴勝ち、黒は雨勝ち、全く的から外れれば風とする。

三 大的射礼

御神的神事終了後、御神的(大的)を的場に移し、辰の刻(午前八時)奉射立組(射手)十人が裃装束に威儀を正し、御山取締(お山大将ともいう)を先頭に拝殿に入ってお祓いを受け、的場に下がり所定の位置につく。

御山取締の合図により奉射立組は約十間(一八メートル)離れた大的に、各人二本宛五回計百本を射る。

四 かりがねの的射礼

大的射礼に続いて、大的より遠距離約十五間(二八メートル)の「かりがね」をかたどった径約一尺(三〇センチメートル)を大的射礼に準じて射る。的まで距離が遠く、しかも小さい為的中は困難だが、古来この鳥は害鳥とされ、十人中の誰かが射止めるまで、何回でも射る決まりだったといわれている。

五 目録授与

御山取締は、大的・かりがねの的射礼終了後、書記の記録した当日の成績を「目録」として授与する。

弓太郎と弓次郎は奉射立組の総代となり、古式に従って御山取締の前に進み出て「目録」を受ける。

六 精進上

奉射立組は、最後に精進上げをして一切を終わる。

◯復活

昭和十五年に「やぶさめ」が中断して半世紀が経ち、一般には地区内に僅かにのこる絵葉書と昭和六十三年に出版された「ふるさと小斎の歴史」などで目にする程度となり、今や地区の人びとの記憶からも忘れさられようとしていた。

そこで、小斎伝統の無形文化財を復活して後代に伝承することを願い、平成二年度から始めた丸森町町おこし事業である生涯学習の一つとして、昭和十三・四・五年の復活で出場された五人の方々のご指導ご支援のもとに、平成三年三月三日(旧正月十七日)復活第一回を実施した。なお、現在は毎年三月第二土曜日・日曜日に開催されている。

伝承では景行天皇41年(111)、日本武尊東征の際に国家鎮護を祈願し創祀されたといわれます。

日本三代実録 貞観8年(866)正月20日丁酉条に「常陸国鹿島神宮司言。大神之苗裔神卅八社在陸奥国…伊具郡一(後略)」とあり、この伊具郡の一社が当社といわれています。

 

天文元年(一五三二)、小斎の西舘城主長門守の家老齋藤軍太左エ門が社殿再建。

戦国時代末に小斎が佐藤宮内為信の領地となると、佐藤家は当社を守護神として崇敬。

 

明治5年村社列格。

 

当社はやぶさめが有名ですが、これは一般的な馬に乗って矢を放つ「流鏑馬」ではなく、立ったまま射る「奉射祭」。

寛永20年(1643)から慶応4年(明治元年)まで続いていたのが、維新後明治9年まで中断。その後再開され戦時の中止を除き明治末まで続くも大正になりまた中止。昭和13~15年に復活するも戦争で継続不可となり、戦後も絶えたままでいました。平成3年に町おこし事業の一つとして復活し、以降は毎年3月第2日曜日の実施となり、継続しています(ただし2020~21は新型コロナの影響で中止)。

 

祭神は武甕槌命。

三代実録の鹿島苗裔神であるとすれば、本来は鹿島大神の御子神が祭神だったのでしょうか。

御朱印

御朱印はあります。

境内右手に宮司さんのお宅があるので、そちらで拝受可。

アクセス

角田市の角田警察署前交差点(位置)から、県道44号を南東へ。

5kmちょっと道なりに走り、桜井川沿いに出たところ(位置)を直進。

2kmちょっと先(位置)で左折。500mほど先、左手に神社。

鳥居右手から神社側に入ったところのスペースが駐車場だと思うのですが…

神社概要

社名鹿島神社(かしまじんじゃ)
通称小斎鹿島神社
旧称鹿島大明神
住所宮城県伊具郡丸森町小斎字日向4
祭神武甕槌命
社格等

日本三代実録 貞観八年正月廿日丁酉 (鹿島)大神之苗裔神卅八社(伊具郡一)

旧村社

札所等
御朱印あり
御朱印帳
駐車場あり(?)
公式Webサイト
備考

参考文献

  • 「小斎村」, 『日本歴史地名大系』(データベース「JapanKnowledge」)
  • 「鹿島神社」, 神社本庁教学研究所研究室編『平成「祭」データ(CD-ROM)』全国神社祭祀祭礼総合調査本庁委員会, 1995