櫟原北代比古神社。
輪島市深見町に鎮座。
式内社 鳳至比古神社の論社。
境内
社頭
社号標
参道から境内
鳥居
手水舎
狛犬
手水鉢
社殿
拝殿
扁額
拝殿裏の狛犬
本殿への石段
本殿
明治37年に火災に遭うまでは、現在地よりも後方、八幡森と称される裏山上に本殿があったそうです。
境内社等
祠の跡?
倉庫?
下掲の案内に出ている、「社殿前のタブの生きる根が地上に出ている」というのはこれのことでしょうか
参道脇に名水神様池の案内板
神様池
御神水?配管からすると、ここから湧いているというよりは山の方から引いてきているのでしょうか。
由緒
この宮は、鷲嶽八幡宮と言われた時期もあり、その後、明和五年(1768)に社号を現在の櫟原北代比古神社にもどした。
鷲嶽という名前は、往古この所に鳳至比古の神が悪鳥大鷲を退治した時、その羽に八幡の文字があったので、これを勧請した社ともいい、又、この悪鳥の骸を埋めたことから鷲嶽の宮ともいわれ、鷲嶽地区の後方の背嶽が崩壊して、前面の海を埋めて現在の社叢が出来たとも言われている。
石川県指定天然記念物 平成3年10月4日指定
櫟原北代比古神社社叢
この社叢は、数百年来北国の厳しい風雪のため枝振りよく育ったクロマツを優占種とした群落を抱擁して、紺碧の日本海に突出している断崖の部分と、その反対のやや緩やかな面とから出来ている。緩慢な面はタブとシイが主体となっている。特に、社殿前のタブの生きる根が地上に出ているは注意すべき現象である。
古来、氏子たちは、この八幡森を神の憩いの場所として婦女子の入ることさえ禁じていた。
創建時期は不詳。
延喜式神名帳にみえる「能登国鳳至郡 鳳至比古神社」に当社を充てる説があります。
鳳至比古の神が悪鳥大鷲を退治し、その羽に八幡の文字があったので八幡宮を勧請したのが当社の起こりで、悪鳥を埋めたために鷲蔵宮ともいう、ということが『能登名跡志』に記されているので、この伝承が説の根拠となっているのかと思います。
また、同じく延喜式神名帳にみえる「能登国鳳至郡 美麻奈比古神社」に充てる説もあります。
『能登志徴』に「又云、美麻奈比古神社是也と」とあるのですが、根拠は不明。
承元元年(1207)に社殿を、承応3年(1340)に宝殿を造立したことが記された棟札があったようです(明治の時点では写しがあったようですが現状は不明)。
口碑によれば、天正7年(1579)、前田利家能州打入の際、櫟原座主が服従しなかったため兵乱となり、宝物旧記等は失われたとされます。社殿等の再興は文禄年中(1592~96)とのこと。
明治37年に火災に遭い社殿等焼失。
翌38年に拝殿再建。
翌々39年には本殿も再建され、村社列格。
現祭神は十一柱ですが、うち七柱は明治末に合祀された境内社1社・境外社7社の祭神のようです。
合祀社数と祭神数が合わないのは、うち一柱が元より主祭神であった天照皇大神だったため。
少なくとも明治時点(合祀前)の主祭神は、天照大神、大日本彦耜友尊、湍津姫神、気長足姫命の四柱。
過去に八幡宮や六社大明神を称したことを鑑みるとどういう経緯でこの四柱となったのかが不明ですが…
大日本彦耜友尊=懿徳天皇を主神として祀っている神社はなかなか珍しいと思います。
御朱印
御朱印の有無は不明。
アクセス
輪島から国道249号を東に8km弱行くと社頭(位置)。路肩に社号標が立っています。それ以外全然目印になるものがなくて…
境内に駐車可。
神社概要
社名 | 櫟原北代比古神社(いちはらきたしろひこじんじゃ) |
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通称 | – |
旧称 | 櫟原北代比古神社六社大明神 鷲嶽八幡宮 |
住所 | 石川県輪島市深見町40-60乙 |
祭神 | 天照大神 応神天皇 大日本彦耜友尊 湍津姫神 気長足姫命 大物主神 保食神 天児屋根命 建御名方神 菅原道真 天糠戸命 |
社格等 | 式内社 能登国鳳至郡 鳳至比古神社 式内社 能登国鳳至郡 美麻奈比古神社 旧村社 |
札所等 | – |
御朱印 | 不明 |
御朱印帳 | – |
駐車場 | なし |
公式Webサイト | – |
備考 | – |
参考文献
- 「谷内村」, 『日本歴史地名大系』(データベース「JapanKnowledge」)
- 「櫟原北代比古神社」, 神社本庁教学研究所研究室編『平成「祭」データ(CD-ROM)』全国神社祭祀祭礼総合調査本庁委員会, 1995
- 式内社研究会編『式内社調査報告 第十六巻 北陸道2』皇學館大学出版部, 1985