八幡秋田神社。
千秋公園内、久保田城の本丸跡に鎮座。
佐竹氏の氏神八幡神社と、佐竹義宣公、義和公、義堯公を祀る秋田神社が合併した神社。
境内
二の丸跡の売店横から登ります
久保田城表門
表門は久保田城本丸の正門で、一ノ門とも呼ばれていた。本丸の玄関口として警備上からも重要な地点とされており、左手には門の警備と管理をする「御番頭局」、門の下手には侵入者を警戒する「御物頭御番所」を置いて厳重な守りを固めていた。
久保田城は慶長八年(一六〇三)に築城して翌年に完成し、表門は元和八年(一六二二)に最初の建て替えが行われている。その後、寛永一〇年(一六三三)、安永七年(一七七八)など何度か火災に見舞われている。
この門は、絵図などの文献資料や発掘調査の成果をもとに再建したもので、構造は木造二階建て瓦葺き櫓門であり、佐竹二〇万石の正門にふさわしい壮大なものとなっている。
社号標
鳥居
手水舎
社殿
拝殿
扁額
本殿
八幡秋田神社は、初代藩主佐竹義宣公始め、歴代の藩主を祀る、秋田県の有形重要文化財でありましたが、平成十七年一月九日の放火により社殿を焼失しました。 以来、皆々様のお力を戴きまして、平成二十年十二月に竣工することができました、これも偏に皆様の御陰様と心より感謝をし、厚く御礼を申し上げます。
又、社殿の再建は成りましたが、皆様より尚一層のご理解、力強いご支援、ご協力を賜ります様、切にお願い申し上げます。
境内社等
参道右手にある雄柳龍神
雄柳大龍王尊の碑
与次郎稲荷神社の鳥居と社号標
狛犬
お狐さん1
お狐さん2
お狐さん3
お狐さん4
並んでいる中では一番古いようです。
祠
手水舎
社殿
与次郎稲荷神社には、与次郎という狐が祀られています。
久保田城(現千秋公園)のあたりに住んでいた狐が、佐竹義宣が秋田に転封後、久保田城を築いたために住処を失いました。
狐は義宣の前に現れ「住処を失って困っているので代わりの土地をいただきたい。願いがかなえられるなら城の守りをし御用にも役立ちたい」といいます。
どう役立つのかを聞くと、狐は飛脚になり秋田江戸間を6日で往復するといい、喜んだ義宣は城北の茶園付近の土地を与え、狐に「茶園守の与次郎」と名付けました(転封前の水戸時代にそういう家臣がいたそうです)。
与次郎は急用の際には約束通り往復6日で行き来し、御用勤めは6年続きました。
その頃、山形の六田村(現東根市)の飛脚宿の間右衛門という者が、飛脚が来ないのを不審に思い猟師の谷蔵に相談します。谷蔵は狐に違いないといって油鼠を使った罠を仕掛け、与次郎はその罠にかかり殺されてしまいます(罠を破ろうとして失敗した、正体を見破られ覚悟して罠にかかった等話によってパターンあり)。
間右衛門や谷蔵は与次郎の死体を煮て食い、金を奪うのですが、村ではそれからすぐに人々が発狂し始めます。
江戸にもこの話が届いて代官が派遣され、代官は与次郎を八幡に祀ることとすると、騒ぎは収まったといいます。が、間右衛門と谷蔵はそのままあがき死に、その一族も絶えたそうです。
義宣は与次郎の死を無念に思い、城内に与次郎を祀る神社を建立。これが与次郎稲荷の始まりです。
その後数度移転を経て現在地に落ち着いたとのこと。
秋田市楢山南中町にも分社があったのですが(位置)、近年廃社となり、当社に合祀されたようです(該当位置のストリートビューで2012年の写真を見るとかつての神社が写っています。現在はアパートになっています。wikipediaに載っている廃社当時の住所は全然違う場所…)。
この与次郎の伝承には史実性が隠されていると見る向きもあります。
与次郎は佐竹の密偵で、隠密行為が発覚し幕府によって消された、あるいは発覚を恐れた佐竹氏により第三者を使って消された、など。
与次郎稲荷については、こちらにかなり詳しく紹介されています。
由緒
秋田神社は、明治十一年(一八七八)秋田初代藩主佐竹義宣を祀るため、広小路に創建され、同三十二年に旧城本丸の現在地に移された。九代義和・十二代義堯を合祀する。
同四十年、佐竹氏の氏神八幡神社(明治五年大八幡・正八幡宮を合祀)を合祀して、八幡秋田神社と改称して内町の鎮守となった。
社殿は、文政年間(一八一八~二九)に造営された佐竹氏の氏神大八幡宮を移築したものである。
八幡神社は、佐竹氏が常陸国太田城にいた頃、佐竹昌義が石清水八幡宮を勧請した馬場八幡宮が始まりのようです(源頼義の創建との伝承もあり)。
これを慶長7年佐竹氏秋田転封の際に当地に移転された、とのことですが、馬場八幡宮は今も常陸太田にあるので、秋田に勧請したのだと思われます。こちらが大八幡。
また、13代佐竹義人が鶴岡八幡宮を太田に勧請し若宮八幡宮を創建。こちらも転封の際に勧請されて小八幡、のちに正八幡と呼ばれたといいます。
久保田城内の八幡山には大八幡・小八幡・稲荷が並んでいたといいますが、明治6年(1873)に合祀され八幡神社となりました(合併から下記の移転まで、大八幡・小八幡のどちらの社殿が八幡神社の社殿となっていたかは不明)。
秋田神社は、明治11年(1878)、大八幡の社殿を広小路(東根小屋町、現在の中通2丁目)に移して遷座創設されました。
同年に小八幡の社殿もこちらに移されたようです。
その後城地が佐竹氏に払い下げとなり、明治32年(1899)秋田神社を本丸に遷座。
同40年(1907)に八幡神社と秋田神社を合祀、八幡秋田神社と改称。
八幡秋田神社の社殿は、大八幡の社殿を使っており、重要文化財でしたが、平成17年(2005)、賽銭泥棒による放火で全焼。
平成20年(2008)に再建され、現在に至っています。
ちなみに小八幡の建物はのちに彌高神社の社殿になったそうです(拝殿か本殿か、あるいは両方かは不明。どちらも秋田県指定有形文化財なので、両方かも)。
なお当社の由緒に関しては秋田市公式サイト内にあった『広報あきた』の過去記事に詳しかったので、参考にしました(現在サイトリニューアルによりリンク切れ、掲載号閲覧は市の広報広聴課に要連絡。多分786号)。
『明治神社誌料』は、明治45年(1912)の発行にも関わらず、当社を「秋田神社」として記載しています。
また、八幡神社(東根小屋町県社八幡神社)の合祀を明治42年(1909)としています。
八幡神社の由緒についても記述されており、上述の佐竹氏が転封の際に常陸から遷した神社を指しているようなのですが、最後「明治五年縣社日吉八幡神社に合祀せられたり」と結んでいます。
秋田城内にあった八幡神社が日吉八幡神社に合祀されたなら、秋田神社と同境内にあり後に合祀された八幡神社は別の神社なのでしょうか。
しかし当該記事では秋田神社と八幡神社の合祀を述べた直後の行から「八幡神社由緒に云く…」と続けており、唐突に別の八幡の記述をするとも考えられません。
考えられるとすれば、八幡神社は一度日吉八幡神社に合祀された後、独立して秋田神社の境内に遷ったか、あるいは日吉八幡神社は八幡神社の分霊を勧請して、それを合祀と表現したか、等ですが…
『明治神社誌料』は国会図書館デジタルコレクションでネット上から自由に閲覧できますので、気になる方は読んでみてください。
御朱印
御朱印はあります。
社務所で拝受可。
アクセス
神社は千秋公園内にあります。
秋田駅の西から県道26号を西へ、千秋公園入口交差点(位置)を北に入って直進です。
道なりに進むと駐車場があります(位置)。100円/30分。ただし冬季12/1~3/31まで利用不可。
市の案内ではエリアなかいちの駐車場と秋田市公営駐車場が紹介されています。
エリアなかいちの駐車場は施設の南側(位置)から入れます。ちょっとわかりづらいですが、30分まで無料、1時間100円と良心的な価格。
秋田市公営駐車場(位置)は1時間200円、以降30分毎100円。
それ以外だと、距離的には県道28号沿い、秋田明徳館高校の北にあるコインパーキング(位置)が公園に最も近く、40分100円とまあまあのお値段。
神社概要
社名 | 八幡秋田神社(はちまんあきたじんじゃ) |
---|---|
通称 | – |
旧称 | 八幡神社 秋田神社 |
住所 | 秋田県秋田市千秋公園1-8 |
祭神 | 品陀別命 息長帯姫命 比売神 佐竹義宣朝臣 佐竹義和朝臣 佐竹義堯朝臣 |
相殿 | 倉稲魂命 猿田彦命 大宮売命 武甕槌命 |
社格等 | 旧県社 |
札所等 | – |
御朱印 | あり |
御朱印帳 | – |
駐車場 | 千秋公園駐車場、他周辺有料駐車場を利用 |
公式Webサイト | – |
備考 | – |
参考文献
- 「八幡秋田神社」, 『日本歴史地名大系』(データベース「JapanKnowledge」)
- 「八幡秋田神社」, 神社本庁教学研究所研究室編『平成「祭」データ(CD-ROM)』全国神社祭祀祭礼総合調査本庁委員会, 1995
- 明治神社誌料編纂所編『府県郷社明治神社誌料 中巻』明治神社誌料編纂所, 1912(国会図書館デジタルコレクション 633-634コマ)