天都賀佐比古神社(美馬市美馬町轟)

天都賀佐比古神社。

美馬町轟、県道12号と131号が接続する交差点のそばに鎮座。

式内社 天都賀佐毗古神社の論社。

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境内

社頭

 

鳥居

 

社号標

 

手水舎

 

平成の狛犬

 

嘉永の狛犬

 

手作りっぽい絵馬掛け

社殿

拝殿

 

扁額

 

本殿

境内社

境内社の若宮神社

 

神具庫?

 

天都賀佐比古神社氏子支那事変大東亜戦争出征及び殉国者名碑

 

記念碑建立について

昭和十二年七月七日支那事変が始まり、昭和十六年十二月八日大東亜戦争が勃発、天都賀佐比古神社(轟さん)氏子として、小長谷部落(小長谷・川原町)より現役軍人又は召集令状により、陸軍・海軍及び空軍に駆り出され、日本国内外で戦争に次ぐ戦争或いは国内警備等々、国是として、軍人として、約六十戸の部落より五十四名の若者が命をかけて従軍したものである。戦いに参加、敵弾に死する者、或いは体調を崩し病死する者計十一名。終戦後五十余年、軍人であった人々も七十才から八十才を皆越えた年齢、生存者も数少なくなった昨今である。小長谷部落其他人々に歓呼の声で送られて出ていったのも轟神社境内であった。氏神さんに挨拶をして、送ってくれた方々にお礼を言い『国のため、命をかけて働いて参ります。』と誓いを述べたのも、この轟さんの境内『これが最後で総て見納めになるかも知れない。』と思えば胸に熱いものを感じつつ、万歳・万歳で送り出されたものであった。この思い出深い轟さんの境内に、せめて名前だけでも残しておきたい考えから刻石・記念碑建立となった次第である。

 

境内から南の剣山地を臨む

さすがに剣山は見えません。

由緒

延喜式内社 天津賀佐彦神社

御祭神 級長津彦神 級長津姫神

由緒 当社は西暦六世紀以前に創建されたものと思われ 古墳時代後期 美馬郡院のあった大村郷(郡里)一帯の住民及び郡領が崇敬していた神を祭り 風災を鎮め五穀豊饒を祈った由緒ある神社でその神威顕著な所から延喜時代式内社に列せられその後郡里の総氏神として盛大な祭が行われていた古社である

創建時期や由緒は不詳。

当社の付近には国指定史跡である段の塚穴や郡里廃寺跡があり、一帯は古代美馬郡の文化・政治の中心地であったと考えられているようです。

かつては現在地の西200mほどにある高畑に鎮座していたと伝わります。

 

延喜式神名帳にみえる「阿波国美馬郡 天都賀佐毗古神社」に当社をあてる説があります。

 

昔この社の前を乗馬のまま横切ると勢いよく投げ出され、吉野川を西上する舟が帆をかけたまま通ると転覆するといわれ、このような災難を避けるためご神体を北向きに鎮座したそうで、古神札には日本一社北向鎮座と記してあるとのこと。

 

明治8年村社列格。

 

祭神は、神社明細帳には級長津彦命、級長津姫命。

『阿府志』は祭神一座 級長津彦命とします。

しかし『特選神名牒』には「今按阿府志祭神級長津彦命とあるは賀佐毘古の賀佐を風神の加世に思ひよせたる説なるべし故今とらず」として祭神の記述がありません。

また、『阿波國式社略考』および『神名帳考証』では建貝兒王命を祭神としてあげています。

 

ちなみにこの神社をネットで検索すると住所が「徳島県美馬市美馬町字裏32」と書かれているページが徳島県神社庁をはじめ複数Hitするのですが、もしかして「轟」を「裏」と誤植したのが広まってしまったんでしょうか。美馬町に裏という地名はないようなので…

御朱印

御朱印の有無は不明。

アクセス

県道沿いからだと入れません。12号と131号の接続する交差点の一つ西にある交差点を南へ曲がり、次に左折すると神社前へ。

 

この辺りに駐車できるスペースがあります。

神社概要

社名天都賀佐比古神社〔天都賀佐彦神社〕(あまつかさひこじんじゃ)
別称

轟大明神

轟宮

旧称
住所徳島県美馬市美馬町轟32
祭神

級長津彦命

級長津姫命

社格等

式内社 阿波国美馬郡 天都賀佐毗古神社

旧村社

札所等
御朱印不明
御朱印帳
駐車場境内前に駐車スペースあり
公式Webサイト
備考元は西200mほどの高畑に鎮座

参考文献

『式内社調査報告 第二十三巻 南海道』 皇学館大学出版部

 

『日本歴史地名大系 37 徳島県の地名』 平凡社

 

『徳島県神社誌』 徳島県神社庁


 

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