建穂神社。
静岡市葵区建穂に鎮座。
式内社 建穂神社に比定される神社。
境内
社頭
鳥居
手水舎
社殿
拝殿
扁額
拝殿扉の鍵が自転車用のチェーンロックでした
本殿
境内社等
境内社
明治神社誌料や静岡県神社誌には境内社として荒神社と庚申社が挙げられていますが、そのいずれかか。
建穂神社の大スギ
樹高 四〇・〇〇メートル
目通り周囲 四・四〇メートル
枝張 一五・〇〇メートル
このスギは樹勢が良好で、静岡市でも巨樹として知られている。
スギは日本の特産で全国各地に野生し、又、広く栽培される常緑の高木である。
材は建築、器具、船材として利用される。
他にも注連縄の巻かれた巨木が多数
由緒
祭神名 保食神 天照大御神 (合祀神)猿田彦命・須伊之男命
社殿工作物 本殿 九・九八平米 拝殿 九・五平米
境内敷地 六阡八百八拾三平米
氏子戸数 五百二拾戸(平成二十六年現在)
由緒
当神社の創建は詳らかでない。三大実録に「陽成天皇元慶二年四月己卯授駿河国正六位上岐都宇命神従五位下」とあるは、この神社といわれる。
延喜式神名帳にも載せられ、諸郡神階帳に正五位下建穂神社とあり惣国風土記には「建穂神社所祭天照大神也」とあり、類聚国史には聖武天皇天平七年右大臣藤原武智麻呂御帳田奉納のことが見られる。
又吾妻鏡にもこの神社の神託の事が記され、又永正三年比叡山の僧存海が録した金玉集に、太宰貳が千本の桜を分けて当神社に植えしめその子従三位藤原有家朝臣が和歌を詠んで寄せられた事が書かれている。室町時代の慕景集にも、太田道真が参拝して幣を奉った事が載せられており、駿河国では屈指の名社であった。
建穂の語源はアイヌ語の「トキウ」で沼葺處の意であるという。
この建穂の開村は極めて古く、開村と共に創祀された当神社も亦静岡でも最古に属するものであろうと思われる。仁徳天皇の御代に帰化した秦氏族が諸郡に配置され、和銅年代には駿河国は全国有数の養蚕地となり、その絹帛の大部分は建穂・羽鳥等に住する服部(はとりべ)に依って産出されたのであるが、当神社は養蚕の神馬鳴の神と習合されて馬鳴大明神と称され服部の信仰を集めた。
天平年間秦氏族の信仰により建立された建穂寺が建穂神社の別当となり鎌倉時代には主客が転じて建穂神社を建穂寺の鎮守とするに至った。
こうして建穂寺は当神社を中心として堂塔を構えて盛大となり、今川・武田等より幾度か朱印状が贈られた。特に徳川時代に至り慶長七年十二月八日家康より四百八拾石六斗の朱印が建穂寺に与えられ学頭以外に廿一坊を有した。
明治元年神仏分離の令により仏堂伽藍は一切取除かれて建穂寺は廃寺となり社僧は復飾して建穂神社は本来の姿に帰り、明治六年第五大区四小区の郷社に列せられ、藁科五ヶ村四十部落が郷社区域となった。
大正七年無格社白髭神社を合祀し、昭和十一年無格社八雲神社を合祀した。大正十五年現在の拝殿を建築した。昭和十六年神饌幣帛料供進神社に指定された。
静岡祭浅間神社廿日会祭古式稚児行列の出発式は当神社にて奉告参拝の神事を行っている。
建穂寺は、白鳳十三年(六六二)法相宗の道昭が草創し、養老七年(七二三)に行基が再興したと伝えられる。創立年代には疑問が残るが、県内屈指の古寺として、天平七年(七三五)の「寺領寄進」の記録が、寺の古さを特徴づけている。
平安中期の「延喜式神名帳」に、建穂神社の名がみえ「神仏混淆」の寺であった。安倍七観音の霊場でもあり、観音堂には珍しい稚児舞が伝わっていた。(現在は浅間神社廿日会祭に受け継がれ、静岡県無形民俗文化財に指定)
鎌倉時代の高僧南浦紹明は、幼年期を建穂寺で修行した。学問を目的とした建穂寺は、弘法大師の意志を継ぎ、今川、徳川両家に保護されたが明治初期に経営が困難となり、廃寺となった。
文化財の一部は、観音堂内に保存されている。
創建時期は不詳。
かつては馬鳴大明神、馬鳴明神社と称していました。
三代実録 元慶2年(878)4月14日己卯条に「駿河国正六位上岐都宇命神…従五位下」とみえる岐都宇命神および、延喜式神名帳にみえる「駿河国安倍郡 建穂神社」は当社に比定されています。
『駿河国式社備考』は「古社地は隣村羽鳥村にあり、其村の西南の田疇今に古松三株あり、里人今に明神森と云ふ。字山脇と云、山腰 宮城とも云ふ。泥中に巨石あり。鳥居跡、又五百歩許へだて大鳥居など田の字に存す」、『駿河国式社略記』は「古は服部村の辺までかけて建穂村と云へりしにや、今もかの村に大明神といふ字の森ありて当社の古社地なりと里人いへり」とし、往古は羽鳥村の明神森・大明神に鎮座したとしています(現在のどこに当たるかは不明)。
『式内社調査報告』はこの明神森、大明神等は建穂神社の里宮跡で現社地は奥宮ではないか、里宮は後廃社になったのでないかとします。
一方『神名帳考証土代』は「安倍川ノ上藁科川ノ丘山木枯森ノ辺ニアリ」と、木枯森(位置、当社南方藁科川の川中島で渡渉必須)辺りに鎮座したとします。
『後撰和歌集』に「こがらしのもりのした草風はやみ人のなげきはおひそひにけり」、『枕草子』に「森は…こがらしの森」とみえる木枯森をこちらだとする説もあります。
現鎮座地の建穂に隣接する羽鳥は中世の服織庄・服織郷の遺称地で、渡来系の秦氏が居住したとされ、養蚕に従事する彼らがそれに関連する神を祀ったともいわれます。
建穂寺が創建(白鳳とか天平とかの説があり時期不明)されると、同寺は当社の別当となり、神仏混淆となったようです。建穂寺は「駿河の高野山」と称されるほど栄えたそうですが、江戸末期にはかなり衰退していたらしく、明治の廃仏毀釈、さらに火災にも見舞われ、明治3年廃寺。
現在は神社から少し西に観音堂が建てられています。また、神社左手の道をしばらく登ると観音堂跡があるそうです。
『吾妻鏡』には、建福(穂)寺鎮守馬鳴大明神が酉年に合戦があると予言したことが記されています。
明治6年郷社列格。
大正7年無格社白髭神社、昭和11年無格社八雲神社をそれぞれ合祀。
※『駿河国式社備考』は式内建穂神社について「又同村白髭明神社相殿なりとも云ふ」と記しています。大正に合祀された白髭神社の相殿神が論社であった可能性がありますが詳細不明(そもそも白髭明神社=無格社白髭神社かも不明)。
現祭神は保食神、天照皇大御神。猿田彦命、須佐之男命を合祀。
保食神については、社名の「穂」によるもののよう。天照皇大御神については、『惣国風土記』の「所祭天照太神也日本武尊之祭之所也」によるようです。
『特選神名牒』は建穂を武部ではないかとし日本武尊が祭神か、とします。
御朱印
御朱印の有無は不明。
アクセス
静岡駅の西から国道362号を西へ。安倍川を渡り、羽鳥ICを過ぎて少し先の交差点(位置)を右折。そのまま800mほど行くと社頭に出ます。
石段左手の車道を登ると境内に入れるので、境内西側隅にでも停めさせてもらうのがよろしかろうと思います。
神社概要
社名 | 建穂神社(たきょうじんじゃ) | |
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通称 | – | |
旧称 | 馬鳴大明神 馬鳴明神社 | |
住所 | 静岡県静岡市葵区建穂271 | |
祭神 | 保食神 天照皇大御神 | 現祭神 |
日本武尊 | 『特選神名牒』 | |
合祀 | 猿田彦命 須佐之男命 | |
社格等 | 式内社 駿河国安倍郡 建穂神社 日本三代実録 元慶二年四月十四日己卯 岐都宇命神 従五位下 旧郷社 | |
札所等 | – | |
御朱印 | 不明 | |
御朱印帳 | – | |
駐車場 | なし(境内駐車可) | |
公式Webサイト | – | |
備考 | 旧地(あるいは里宮跡)は羽鳥の明神森 一説に木枯森が旧地とも |
参考文献
- 「建穂神社」, 『日本歴史地名大系』(データベース「JapanKnowledge」)
- 「建穂神社」, 神社本庁教学研究所研究室編『平成「祭」データ(CD-ROM)』全国神社祭祀祭礼総合調査本庁委員会, 1995
- 教部省編『特選神名牒』磯部甲陽堂, 1925, p.295(国会図書館デジタルコレクション 184コマ)
- 桑原藤泰『駿河記 上巻』, 1932, p.152-154(国会図書館デジタルコレクション 170-171コマ)
- 式内社研究会編『式内社調査報告 第九巻 東海道4』皇學館大学出版部, 1988
- 静岡県郷土研究協会『静岡県神社志』静岡県郷土研究協会, 1941
- 中村高平『駿河志料 第3編』静岡郷土研究会, 1930, p.5-6(国会図書館デジタルコレクション 129コマ)
- 伴信友『神名帳考証』(『伴信友全集 第一』国書刊行会, 1907-1909, p.232(国会図書館デジタルコレクション 124コマ)
- 明治神社誌料編纂所編『府県郷社明治神社誌料 上巻』明治神社誌料編纂所, 1912(国会図書館デジタルコレクション 914コマ)