小梳神社。
静岡駅すぐそばの葵区紺屋町、静岡パルコの向かいに鎮座。
式内社 小梳神社に比定される神社。
境内
鳥居
扁額
社号標
狛犬
手水舎
社殿
拝殿
扁額
拝殿本殿の中間部
多分中殿か祝詞殿だと思うんですけど…(『式内社調査報告』に記載されている建造物としては、本殿、祝詞殿、神饌所、祭器所、中殿、拝殿、翼舎。祝詞殿・神饌所・祭器所はまとめて坪数書かれているので一体っぽい)。
本殿
境内社
宗像神社
狛犬
稲荷神社
俗に天空合家光稲荷神社と称する
祭神 保食大神
稲荷の神は古来衣食住を扱い日々の生活を守り給う神として衆庶の信仰が篤い。
小梳神社の境内には従来豊受稲荷神社、正木稲荷神社、楠稲荷神社の三社が奉祀されていたが、戦災後合祀して一社とした。
御神徳は
人々の生活を守り育て給う神
五穀・食物の守り神
商売繁昌・商取引の守り神
一年中の幸福守護の神
人々の不浄、穢を祓い給う神
として信仰され、特に当神社は選挙の神として遠近からの参拝が多い。
祭日 春祭 三月十九日 秋祭 九月十九日
お狐さん
稲荷神社の後ろに隠れるようにもう一社の稲荷神社(本殿か奥の院的な扱い?)
お狐さん
霊水 少将の井
このあたりは古来湧水の清らかな所として知られており、昔は神社の前の流れを清水尻川と云いました。小梳神社は江戸時代は「少将井社」と称し『本殿の下に井あり夫婦和合の霊水湧き出す』と云い伝えられています。
この水は境内の井戸から汲み上げたもので病気平癒、健康増進の霊水として知られ地元のみならず全国各地からこの「水取り」に多数来社されます。
新庄道雄の碑
昭和三十七年十月十九日指定
新庄道雄は駿府江川町に生まれた町人学者で幼い頃から、漢籍・天文・和歌等に親しみ、後には国学者平田篤胤に師事し「駿河国新風土記」を著わした。この石碑は道雄の死後の天保七年(一八三六)に追悼のために作られたものである。碑文のおわりに
はふむしも なけかしそね わが道に 雄しきをぢの 石ふみぞこれ
の和歌がしるされている。
撰文 平田篤胤(江戸時代末期の国学者・幕末の尊王攘夷運動に影響を与えた。)
書 屋代弘賢(幕府御家人 江戸時代中期の国学者)
神楽殿
由緒
祭神
建速須佐之男命 奇稲田姫命
相殿祭神
大己貴命 天照皇大神 金山彦命 猿田彦命
由緒
当神社創建の年代は詳かでないが静岡市では最も古い神社の一つである
元の鎮座地は現在の県庁の東南側の所であった その周辺一帯の地名を古くは小梳と云い後に東川辺と改められた 惣国風土記に「小梳神社所祭素盞嗚尊 奇稲田姫也 小梳後号東川辺 延喜式安倍郡小梳神社とあるは此社なり」と記載されている
大宝令の定めにより横田駅が設けられて以来はその守護神として信仰され貞観の頃より祇園信仰が全国に拡まるにつれて当神社は少将井神社とも云われ江戸時代には一般町民からは専ら「少将の宮」と称せられたようである
この東川辺の地に駿府城が築かれて以来は府城の守護神としての崇敬が加わり特に徳川家康が幼時今川家の人質として当神社の宮前町に居住し撫育につとめた祖母華陽院と共に日夜武運長久を祈願し後年家康が大阪夏の陣に勝利し天下を平定してこの駿府城に隠居するにあたり代々徳川家の守り神と伝わる大己貴命 天照大神二神を小梳神社に合祀し少将井五所大神宮と称し元和元年九月三日に林道春(羅山)に命じてこの由を社講に識さしめ奉献したものが現存している
これよりさき慶長十四年駿府城の城域拡張により当神社はその城域内に入った 駿河大納言忠長は不敬を冒すを畏れ又庶民参拝の便をはかって寛永八年に仮宮を造って奉遷し延宝三年に現在の地に社殿を造営して遷宮した この造営の事にあたったのは城代松平右近を始めとして町奉行大久保甚兵衛外城番、番頭、加番、目付等である
翌延宝四年から隔年に神幸祭が行われた この神幸祭はぎおん祭といわれ町奉行、与力、同心が警護にあたり加番集より出し馬があり駿府の町々は一番より四番まで組合を定め各町より屋台、台の物など踟物を出し駿府全域の町々を巡行した 当時のもようを駿国雅誌には「供奉の行列装束を粧い引連なる踟物の結構は都山王の祭礼に彷彿たり」と記されている
明治八年二月郷社に列し明治四十年七月県社に昇格した
昭和十五年一月静岡市大火により社殿工作物を悉く失い同年建築した仮社殿も昭和二十年六月の戦災により再び炎上したが昭和二十五年以来本殿・社務所・手水舎其他現在の建物を順次復興建築した
昭和三十七年三月七日北白川神宮祭主様が伊勢神宮の坊城大宮司、神社本庁佐々木統理を伴って正式参拝された
例祭日 七月二十七日
新庄道雄の石文
駿河国三大地誌の一と高く評価されている「駿河国新風土記」の著者新庄道雄の碑が当神社境内にある 平田篤胤の撰文で静岡市文化財に指定されている
小梳神社は、俗に少将井宮(少将井社)、略して「少将さん」と呼ばれ、駿府城の守護神として崇められていた建速須佐之男命、奇稲田姫命、大己貴命、天照皇大神宮が祭神である。
徳川家康は、駿府城造営の時も小梳神社を城内に残したが、寛永年中(一六二四~一六四三)には、城内から移転し、再度、延宝三年(一六七五)に現在の所に移された。家康は、今川義元の人質として駿府にいた時、小梳神社境内でよく遊んだ思い出の場所として、この神社を大切にしたという。「なをりその記」によると、家康が人質として駿府に来た時、まず、この神社に立寄り、服装を改め、武運長久の祈願をして、その後に今川義元と対面したと伝えられている。当時、造営に当った城代は、松平左近大夫で、延宝四年六月、神輿渡御の神事がはじまった。例祭日の七月二十七日、この風習は、今なお、氏子の間に引き継がれ、隔年に大神輿が市内を巡幸する姿は、夏の風物詩の一つとなっている。
明治以来、再三にわたる火災の被害に会ったが、その都度造営されるほど、地域住民が寄せる当神社の信仰には根強いものがある。
なお、境内には、平田篤胤選文による駿府の国学者新庄道雄の碑がある。
創建時期は不詳。
延喜式神名帳にみえる「駿河国安倍郡 小梳神社」は当社に比定されています。
社名は現在「おぐし」と読まれていますが、延喜式九条家本は「オケツリノ」、吉田家本は「ヲケツリ」と訓んでいます。
当初は「小梳」という地に鎮座したといいます。『総国風土記』に「小梳後號東川邊」とあり、『式内社調査報告』は東川邊を和名抄にみえる川邊郷と解していますが…
この「小梳」は後に東川辺、さらに追手町と名を変えた県庁の東南、青葉小学校跡地(位置)の辺りだとされます(ただし『神が宿るところ』さんは当初の鎮座地を玉桂山華陽院(府中寺)付近とし、後に今川氏が今川館に入ってから城の守護神として城内=現在の青葉小学校跡地に移されたとします)。
『式内社調査報告』は、当社が元は川辺郷を守る地神として祀られ、横田駅の開設によりその守護神に、さらに駿府城が築かれるとその守護神となった、と考察しています。
その後寛永8年(1631)に徳川忠長が新谷町(今のペガサートの辺りらしく、ドコモショップ前に町名碑が建っている)に遷座。かつてはこの新谷町に御旅所があったそう。
さらに延宝3年(1675)に現在地へ遷座。
中世~江戸時代には主に少将井社と呼ばれていました。由緒によれば祇園信仰の広まりによるものだそう。
少将井は祇園社(八坂神社)の祇園会において、西御座の頗梨采女の神輿の御旅所となったところ。頗梨采女は牛頭天王の后なので、奇稲田姫と習合としました(ちなみに現在の八坂神社においては櫛稲田姫命は東御座に祀られています)。
元々の(といっても創建当初は異なると思いますが)当社の祭神は建速須佐之男命・奇稲田姫命の二柱だったのですが、少将井社と呼ばれるようになったということは奇稲田姫命の方が主だったのでしょうか。
明治8年郷社に列格、昭和40年に県社に昇格。
明治9年、25年に静岡繁華街に大火があり、当社も類焼。
昭和15年には静岡市大火により社殿工作物を悉く焼失、同年仮社殿が建てられるも、昭和20年戦災によりまたも焼失。
昭和37年に再建されたということですが、それが現社殿でしょうか。
祭神は上述の通り建速須佐之男命、奇稲田姫命。
元和元年(1615)に徳川家康が徳川氏の守護神の大己貴命と天照皇大神を合祀。
また境内社に祀られていた金山彦命を合祀。昭和16年の『静岡県神社志』には境内社として金山彦神社が記されている(昭和15年の大火で本社と共に燃えてしまったようですが)ので、少なくとも合祀はそれ以降。
経緯は不明ですが猿田彦命も後に合祀されたようです。
さらに『平成祭データ』には金山姫命、石凝留命も合祀神として記載されています。金山姫命は上記金山彦神社に祀られていたようなので、金山彦命と共に合祀されたのでしょうが、石凝留命については不明。
御朱印
御朱印はあります。
社務所で拝受可。
アクセス
静岡駅北口から地下街に入り、K4出口(位置、パルコの前)を出てすぐ。駅から5分そこらで着けます。
車の場合駐車場はないので、付近のコインパーキングに停める必要があります。
駅周辺に駐車場は多数ありますが、休日は結構混雑するようです(実際、北口地下のエキパに入ろうとしたら30分くらい待たされた記憶が…)。ちょっと外れたところや値段高めのところを狙った方が時間のロスは少ないかも。
神社概要
社名 | 小梳神社(おぐしじんじゃ) |
---|---|
通称 | – |
旧称 | 少将井社 |
住所 | 静岡県静岡市葵区紺屋町7-13 |
祭神 | 建速須佐之男命 奇稲田姫命 |
配祀 | 大己貴命 天照皇大御神 |
合祀 | 金山彦命 金山姫命 石凝留命 猿田彦命 |
社格等 | 式内社 駿河国安倍郡 小梳神社 旧県社 |
札所等 | – |
御朱印 | あり |
御朱印帳 | – |
駐車場 | なし |
公式Webサイト | – |
備考 | 往古は県庁の東南、青葉小学校跡地の辺りに鎮座 寛永8年(1631)新谷町に遷座 延宝3年(1675)現在地に遷座 |
参考文献
- 「紺屋町」, 『日本歴史地名大系』(データベース「JapanKnowledge」)
- 「小梳神社」, 神社本庁教学研究所研究室編『平成「祭」データ(CD-ROM)』全国神社祭祀祭礼総合調査本庁委員会, 1995
- 教部省編『特選神名牒』磯部甲陽堂, 1925(国会図書館デジタルコレクション 184-185コマ)
- 式内社研究会編『式内社調査報告 第九巻 東海道4』皇學館大学出版部, 1988
- 静岡県郷土研究協会『静岡県神社志』静岡県郷土研究協会, 1941
- 中村高平『駿河志料 第3編』静岡郷土研究会, 1930, p.94(国会図書館デジタルコレクション 98-99コマ)
- 明治神社誌料編纂所編『府県郷社明治神社誌料 上巻』明治神社誌料編纂所, 1912(国会図書館デジタルコレクション 866-867コマ)